第二の敗戦期

 最近、フォルクスワーゲンディーゼルエンジンをめぐる不正が問題になっている。そんな不正を行ったのは、フォルクスワーゲントヨタなどに負けまいとして、車の販売数を伸ばそうと焦りすぎたためだということだ。
 規模も業種も違うが、これは昨今の日本の出版業界の不正に似ている。出版不況に悩む出版業界では、販売数を伸ばすために、意図的・非意図的な不正が反復されている。その例はたぶん無数に挙げることができると思うが、たとえば、光文社は亀山郁夫と組んで、『カラマーゾフの兄弟』を売るために、意図的・非意図的な誤訳を無数に含む翻訳を出した。亀山の友人である沼野充義がその翻訳を「すらすら読めるドストエフスキー」と言って宣伝した。
 ドストエフスキーを「すらすら」読んでもらっては困る。登場人物と対話をかわしながら、考えながら、つっかえつっかえ読んでもらわなくては、困る。それなのに、「すらすら読めるドストエフスキー」というような軽薄な宣伝文句で読者を釣り、売ろうとした。これは意図的な不正以外のなにものでもない。と、こんな風に嘆いていると、つい、安倍首相の「アンダー・コントロール」発言まで連想してしまう。日本中が軽薄な空気に包まれている。
 先頃亡くなった吉本隆明は『第二の敗戦期』(春秋社、2012)という最後の著書で、亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳は「丁寧にいい作り方をしている」と述べながら、その亀山の解説については、ドストエフスキーが「ぜんぜん読めていない」と、トンチンカンなことを述べている(『第二の敗戦期』、pp.60-61)。
 ドストエフスキーが読めていないから、翻訳が雑な作り方になっているのだ。また、そんな雑な作り方をして平気で出しているのだ。吉本は自分がお世話になっている出版業界に気を使って、そういうトンチンカンなことを言ったのか。吉本まで軽薄なまま亡くなったのか。ほんとうに私たちは吉本のいう「第二の敗戦期」という、うすっぺらな時代を生きているらしい。

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注:「これでは、だんだん深刻な学問というものをやる人が少なくなってきて、こうやればときどき当たって売れるかもしれないという風潮が、学者の研究的な書籍にまで蔓延するほど情けない状態になっているのです。」(吉本、前掲書、p.96)