不幸な家族は幸福な家族を不幸にする

 元農水次官が長男を殺してしまった事件の判決が先日あった。
 私はこの事件が起きたとき、これは典型的な「いじめ事件」だと思った。
 私のいう「いじめ事件」とは、家族の一員が誰かから受けたいじめによって家族が崩壊してゆく事件のことだ。私の家族の場合がそうだった。娘が受けたいじめによって、私の家族は崩壊寸前にまで追い込まれた。崩壊しなかったのは、幸運が重なったからにすぎない。一方、その元農水次官の家族にそのような幸運は訪れなかったようだ。だから、私にとって、その元農水次官の家族の話は他人事ではない。家族の一員が誰かから受けたいじめは、その家族全員を不幸にする。たとえば、事件後明らかになったことだが、元農水次官のもうひとりの子供である長女もその長男である兄のことが原因で結婚が不可能になり、このため自殺した。
 このように、元農水次官の事件は、いくらある家庭が幸福であっても、その家庭の一員が他の不幸な家庭の一員によって徹底的にいじめられ立ちあがることができなくなったとき、その幸福な家庭の誰もが不幸になってゆく――という、典型的と言ってもいい「いじめ事件」のひとつであると思う。
 この元農水次官の幸福な家庭の崩壊は、駒場東邦中学に入学した長男が壮絶ないじめを受けたときから始まる。それまでは、母親が言うように、長男は「子供子供した」可愛い子供だった。
 このような幸福を絵に描いたような子供は、必ず、他の不幸な家庭の子供によっていじめられる。なぜ、いじめられるのか。それはその子供が幸福であるからだ。幸福である子供は、もうそれだけで周囲の不幸な子供たちの暴力の標的になる。自分を幸福ではないと思っている子供は、かならず、その幸福感をまわりに発散している子供に嫉妬し、徹底的にいじめる。(言うまでもないことだが、このようなことは大人たちにも起きる。)
 そのいじめられた子供は悲しい心を抱いて家に帰ると、優しい母親に暴力をふるう。なぜ暴力をふるうのか。それは母親が優しく、その優しい分、自分より弱いからだ。子供は言葉には出さないが、暴力をふるいながら、自分が受けた暴力を母親にだけは理解してほしいと思っている。そして、いじめの現場である学校には行かなくなり、自暴自棄の家庭内暴力を続け、年齢を重ねる。彼の中では時間は止まったままだ。あのいじめられた時の恐怖の時間が彼の中に居座っている。
 だから、その元農水次官の事件の主犯は、最初に、その長男を徹底的にいじめぬいた駒場東邦中学の子供たちなのである。しかし、テレビや新聞では誰もそんなことは言わない。そして、どうでもいいことばかり言うのである。