『沖縄ノート』3

 小説などのフィクションを除いて、私がある文章の価値を判断する基準は、それがどれほど私のいう「物語の暴力」を含むか否かということだ。たとえば、このブログの「続・自尊心の病」で述べたように、自らの自尊心の病に気づいていない者は、自分がさまざまな物語に憑かれているということ、さらに、その物語によって自分や他人に暴力を行使していることに気づくことができない。
 その例のひとつとして私は上野千鶴子の例を挙げた(「物語はなぜ暴力になるのか」)。
 上野は実際に自閉症の子供を育てたこともなく、またその自閉症の子供の親たちの話を聞くこともなく、当時すでに間違っていることが定説になっていた『自閉症 うつろな砦』(全二巻、ベッテルハイム、黒丸正四郎他訳、みすず書房、1972-1975)を読み、「マザコン少年が自閉症になる」という説を河合塾の講演会で面白おかしく述べた。そしてその講演の評判が良かったので冊子にして出版した(『マザコン少年の末路』、上野千鶴子、河合出版、1986)。しかし、この冊子を読んだ自閉症の子供をもつ親たちの怒りをかい、上野は糾弾され、「『マザコン少年の末路』の末路」という文章を書いて謝罪した(『『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』所収、上野千鶴子他、河合出版、1994)。
 もっとも、自らの自尊心の病に気づいていない上野は事実を認めることができなかったので、つまり、傲慢な上野は自らの負けん気に負けることができなかったので、結局、上野の謝罪は不十分なものになり、親たちをさらに怒らせることになった・・・これが私の挙げた上野の例なのである。
 この上野の例を取り上げた「物語はなぜ暴力になるのか」という論文で、私は物語を二種類に分類した。ひとつは「人間の語る物語」であり、もうひとつは「知性の語る物語」だ。
 「人間の語る物語」とは、当事者あるいは当事者の伴走者の語る物語のことだ。上野の例でいえば、自閉症の子供とその子供の伴走者である親たちの語る物語だ。
 「知性の語る物語」とは、非当事者あるいは非伴走者の語る物語のことだ。彼らはさまざまなデータや理論を読みながら、物語を作っていく。上野の例でいえば、その物語にあたるのは『マザコン少年の末路』という講演だ。そして、物語の暴力を作り出す物語の多くは、この「知性の語る物語」なのである。
 なぜ「知性の語る物語」は暴力的になりやすいのか。それは、論文で詳細に述べたように、作者がその物語の描いている時間を質的にではなく、量的にしか生きていないからだ。質的、量的というのはベルクソンの用語だが、量的というのが分かりにくいのなら、それを概念的という風に言い換えてもおおよそ正しい。
 このようなことは当事者にも起きることであり、たとえば、私小説作家が自分の生活をいつわりなく描こうとしても、そこには嘘がまじる。というか、ありのままに書くことなどできない。書き終わった段階で、実際あったこととは違うことが書かれていると当人にも分かる。要するに、言葉で過去の時間を描こうとしても、そこには、その時間を量的・概念的に捉えようという力が働くのだ。そうでなければ、その時間の流れを言葉によって定着させることはできない。
 しかし、このような「人間の語る物語」は実際に体験したことを回想することによって、訂正し続けることができる。自分にとって暴力的、つまり的はずれだと思われる記述を訂正し続けることができる。
 これに対して、自分がその物語が生起した時間を生きていない作者による「知性の語る物語」の場合、それは出来上がったとたん、それ以外に動かしようのない固定した物語になる。また、そのような物語はそもそもその物語が生起した時間を言葉によって反復していないので、当事者にとってきわめて暴力的、つまり的はずれでとんちんかんなものになり得る。このような事態を避けるために、書き手は、かならず当事者と会い、間接的にでも物語が生起した質的な時間を感じ取らなくてはならない。それが不可能なら、少なくとも当事者の手記などを用いることによって、自分の「知性の語る物語」を修正し続けなければならない。
 このような作業を経ず書かれた大江健三郎の『沖縄ノート』は「知性の語る物語」として失格なのである。それは大江の小説、あるいは事実に基づかないノンフィクション作品なのだ。このような物語は当事者あるいはその伴走者に暴力を加え続ける。(続く)