いじめ

 私は専門のドストエフスキー研究についやした時間よりも不登校とか引きこもりの子供たちや大人たちと付き合った時間の方が長いと思う。そんなことをし始めたのは、私の娘がいじめで不登校になったのがきっかけだが、最初はおそるおそる、そのうち本気で彼らと付き合い始めた。とくに45歳頃からの10年間は、仕事が休みになると朝から晩までそういう人たち、あるいは家族と付き合ってきた。しかし、無理がたたり、健康を損ね、心臓を悪くし、あるときをさかいに、彼らと付き合うのをやめざるをえなくなった。私と同じようなことをしていた人はそのほとんどが病気になったり早死にしている。
 しかし、なぜそんなにまでして彼らと付き合ったのか。それは、彼らと彼らの家族が崩壊の一歩手前にいたからだ。誰だってそんな人たちを放っておくわけにはいかない。それに、彼らと付き合えば付き合うほど、この日本の社会が腐敗していることに気付かされた。この腐敗に対する腹の底から湧き上がる激しい怒りが、私を彼らを放っておけないという気持にさせたのだ。要するに、私は意固地になったのだ。
 日本の社会の腐敗はどこに現れるか。それは、おそらく、どの国の社会でもそうだろうが、まず弱い者に対する暴力に現われる。ドストエフスキーのいう「死産児」、つまり、すべてが許されていると無意識のうちに感じている者たち、自分は不幸だと思い込み、だから、何をしてもいいんだと思っている人々、そのような彼らを押しとどめる道徳律は何もない。
 彼らは自分が苦しくなると、必ず自分より弱い者をいじめる。これほどのワン・パターンはない。死産児は必ず弱い者をいじめる。これは、1+1=2のような定理であり、例外はない。私が聞いた不登校や引きこもりの人たちの話に、直接・間接に死産児によるいじめが関係していない例はなかった。
 本人がいじめられて不登校とか引きこもりになるのは普通のことだ。自分の身を守るためにそうするのだ。それよりも、不登校や引きこもりの人で多かったのは、他人がいじめられているのを見て、それに耐えられなくなって学校とか職場に行きたくなくなった、というような人だ。
 このようないじめの特徴は、いずれもいじめている当人が罪の意識を抱いていないということだ。要するに、いじめている当人も何らかの被害者意識(自分はひどい目にあっているという意識)を持っていて、その憂さを弱い者に向けるのである。強者がより弱い者をいじめ、その弱い者がより弱い者をいじめる。そして、いちばん弱い者は、老人や幼児、さらに猫や犬をいじめる他はなくなる。
 そして、このような暴力とともにその暴力を肯定させてくれる物語がかならず生まれる。なぜか。暴力が悪いことだということぐらい誰でも分かるからだ。だから、彼らは自分の暴力を正当化させてくれる物語を求める。言い換えると、暴力をふるわなければならない理由が物語として語られるのである。そして、暴力とともに、その物語が暴力を加えられた者に向けられる。「あいつは・・・だったから、いじめたのだ」という物語。その物語を複数の人間が共有するとき、その暴力は集合的暴力となる。こうして、逃げ場を失ったいじめられた者は死ぬしかなくなる。さまざまなかたちの暴力に付帯するこの物語の暴力の方がいじめられる方にとっては過酷なのだ。なぜか。それは集団によって共有されるからだ。