朝日新聞という病

 門田隆将の『新聞という病』という本がよく売れているそうだが、私のこの文章はそれとは関係がない、というか、たぶん根っこのところではつながっているのだろうが、さしあたり、直接、関係はない。
 朝日新聞は私がものごろころついた頃から、私のまわりにあった。私を育ててくれた人や親が講読していたのだろう。それ以来、字が読めるようになってからは、ずっと、私は朝日新聞を読んできた。途中、中国の文化大革命ソ連を擁護するような報道にうんざりして、他の新聞に変えたこともあるが、また朝日に戻ってきた。
 朝日に戻ったのは、その文章が良かったからだ。読売を講読していたときは、その文章の肩の力が抜けたような平凡な調子に物足りなさを感じ、産経を講読していたときは、その頭の悪い人が書いたような文章(失礼!)に戸惑い、結局、朝日に舞い戻ったのである。
 しかし、私はあるときから、三十歳を過ぎた頃からだろう、朝日を読むのがつらくなった。何がつらかったのか。それは、その優等生のような、いかにも「私は賢いのでございますよ」というような文章が鼻についてきたのである。しかし、もう読売のふぬけのような文章や、産経の落第生のような文章に戻るわけにはいかないので、朝日を読み続けた。

 ところが、あるとき、このまま何も考えずに朝日を読むのは危険だな、と思うようになった。そう思ったのは、朝日を毎日読んでいると、私のいう「自尊心の病」がいっそうひどくなるように思ったからだ。
 朝日は何があっても自民党を肯定しない。自民党の歴代の総裁、すなわち歴代の首相は、朝日にぼろくそに言われ、自民党は腐敗の温床のように言われてきた。しかし、たとえば、大平首相は生前、ぼろくそに言われていたのに、急死したとたん、朝日は賞賛した。他の首相なども似たり寄ったりである。生きているときは罵倒され、死んだ途端、褒めちぎられる。朝日新聞よ、どっちが本当の気持なんだ、と、いつも思ったものだ。これが人間なら、とても信用されない。
 このような態度は今も朝日に一貫している。現在の日本を支えている政党(自民党)や企業などを激しく批判するが、そこには裏がある。つまり、そのような政党や企業などは、そう憎くもないのに、何が何でも批判しなければならなければダメなのである、という態度が、朝日には一貫している。要するに、常に現状に不満であるような演技を続けなければならない、という態度が朝日には一貫している。
 このような新聞を毎日読んでいると、自民党に投票するのが精神的な堕落のように思われてくる。事実、私は子供の頃から朝日を読んできたので、自民党に投票することができなかった。自民党に投票していると言う人に会うと、軽蔑した。しかし、かといって、自民党を軽蔑していたかと言えば、そういうわけではない。自民党が日本を支えていることはよく分かっていた。それなのに、自民党に投票できないのである。
 私はあるとき、そのような自分にうんざりし、これは虚栄だな、朝日によって醸成された虚栄だな、と思った。要するに、自尊心の病なのである。朝日のように、私自身、現状をそのまま肯定するのがしゃくで、その一枚上を行くのがカッコイイと思っているだけなのである。
 それ以来、私は朝日を読むとき、これは自尊心の病との戦いであると思って読むようになった。具体的にはどういうことかと言えば、たとえば朝日が社説で自民党のある政策を批判していると、それではキミはどうするつもりか、と、朝日に問いかけるのである。ほとんどの場合、朝日に答はない。あっても、実現不可能な答が大半を占める。だから、そのような社説は虚栄であり、私たちの自尊心の病をかきたてるために書かれているだけだと分かる。

 これが、現在、私が朝日新聞という自尊心の病に憑かれた新聞を読む楽しみなのである。