(続)亀山郁夫の「100分 de 名著」

 前稿を書いたあと、きょう、もう一度、亀山郁夫の「100分 de 名著」の最終回の録画を見た。私はかなり前、一度亀山のその番組を見たきりで前稿を書いたので、記憶を確認するために、もう一度見たのである。見て、私は自分の記憶にかなり間違いがあることに気づいた。だから、訂正しておかなければならない。
 テレビで亀山は、亀山の創作による『カラマーゾフの兄弟』第二部で、アリョーシャが革命家たちと皇帝権力の和解を図るために自分の身を犠牲にするのであると述べていた。亀山は、そのようなアリョーシャの死を暗示するために、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の冒頭にヨハネ福音書の一粒の麦云々を掲げたという。
 繰り返すと、亀山はテレビで、『カラマーゾフの兄弟』冒頭に掲げられた一粒の麦云々という聖書の言葉は、アリョーシャの死を暗示するために掲げられたと述べていた。私はそれを前稿では、亀山が、一粒の麦云々という聖書の言葉を革命家の自己犠牲を賞賛している言葉としているというように述べた。私がそう述べたのは、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の続編でアリョーシャが皇帝暗殺を企てるというプランを友人に語ったという噂があったからだ。この場合、アリョーシャが革命家に変貌しているという前提がある。しかし、いずれにせよ、こんな風に考えたのは私のまったくの思い込みであり記憶違いであった。亀山に謝罪し、訂正しておきたい。
 しかし、それでも私には、なぜアリョーシャが革命家たちと皇帝権力を和解させるために犠牲になるのかが分からない。ただの作り話だよ、と、言ってしまえばそれまでだろうが、私には了解できない作り話である。なぜなら、無神論者である革命家たちとロシア正教パトロンである皇帝権力が和解できるとは思えないからだ。それは水と油だ。それ以上に了解できないのは、その作り話のために、なぜヨハネ福音書の一粒の麦の話が必要だったのかということだ。なぜなら、その一粒の麦の話はアリョーシャひとりに向けて述べられたのではなく、『カラマーゾフの兄弟』に登場する人々すべてに向けて述べられたものであるからだ。