ジラールのドストエフスキー論の意義

 受講生からの質問がありましたので答えます。
 「ルネ.ジラールの模倣の欲望についての考えを否定することはドストエフスキーの宗教観の源(キリスト)を否定することになる」と私は授業で述べましたが、それはどういう意味か、というご質問です。
 ジラール無神論者から回心しキリスト者カトリック)になった人ですが、彼の模倣の欲望論の根底にはそのキリスト教信仰があります。授業でお話したことですが、キリスト教の神中心主義に対立するものが人間中心主義(ヒューマニズム)です。この対立をきわめて鮮やかに示したのが『カラマーゾフの兄弟』のイワンの語る大審問官伝説です。
 大審問官伝説で鮮やかに描かれていますように、人間という存在は人間の自由意志のままにしておけば(つまり人間中心主義をつらぬけば)、お互いがお互いの狼になるような存在です。要するに、人間の自由意志にしか人間の行為を抑制するものがないとすれば、人間は相手の一枚上を行き、相手を征服し、相手を喰らいつくそうとするのです。この相手の一枚上を行こうとさせるものが自尊心(あるいは自己愛)の働きです。この自分の自尊心の動きに気づいていないまま振る舞う人を私は「自尊心の病」に憑かれた人と呼んでいます。
 しかし、このような互いが狼になるような状態は、結局人間にとって耐えがたいし、自分たちの存在そのものを脅かすことになります。このため私たちはこのような状態から抜け出そうとします。それには二つの方法があります。
 ひとつは、『地下室の手記』で述べられているような方法で、人間の理性によって人間の欲望をコントロールし、互いが狼になる事態を回避することです。しかし、『地下室の手記』の主人公が述べているように、これは不可能です。私たちは自分たちの欲望を他人からコントロールされることに耐え得ません。他人が自分よりも良いものを所有しているとき、それを自分も所有したいと思います。これがジラールのいう模倣の欲望です。従って、人間の自然の本性に従うかぎり、理性によってこの欲望から抜け出すことは不可能です。しかし、この欲望から抜け出すたったひとつの方法があります。それがキリスト教の隣人愛によるものです。
 隣人愛というのは、一言でいえば、自分の模倣の欲望を手放し、相手の存在をありのままに認めることです。そんなことは不可能だ、と大審問官は言います。大審問官伝説の作者であるイワンもまた同じように考えています。
 では、そのように不可能な模倣の欲望を手放すということはいかにして可能なのか。これについて述べているのがキリストの山上の垂訓などであり、ドストエフスキーの後期の小説群なのです。
 以上は、理論ではなく、あくまである具体的な状況にそくして述べられるべきことです。なぜなら具体的な状況抜きの理論は暴力になるからです。文学が貴重なのは、このような理論抜きで以上のような事柄を述べている点です。
 詳しくは、授業で述べますので、それを聞いて下さい。
 私自身と模倣の欲望の関係は下の記事に書きましたので、参考にして下さい。
http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20111121/1321880981

2013/08/07(私のフェイスブックの文に一部手を加えて転記しました)