西部邁と大審問官伝説

 前回西部邁ドストエフスキーと同じ立場に立つ思想家だと述べたが、その言葉の意味を理解することができない人がいるかもしれないので、もう少し説明を加える。
 と言っても、この説明はじつに簡単だ。西部の著書のどこを開いてもドストエフスキーの思想に出会える。手当たり次第に、たとえば、最近読んだばかりの『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。――私の政治家見験録』(西部邁飛鳥新社、2010)から引用してみよう。
 この本は題名だけ見ると駄本だと思われるかもしれない。しかし、お世辞抜きに言って、これは枕頭の書として通用する人物論だ。ここでは西部がこれまで知り合ってきた政治家たち(鈴木宗男、秦野章、新井将敬中川昭一小泉純一郎亀井静香加藤紘一中曽根康弘小沢一郎など)のポートレイトが鮮明に(と私が思うだけだが)描かれている。私は西部ではないので当然違和感を覚えるはずなのだが、不思議なことに、この本に私はほとんど違和感を覚えなかった。
 西部はこの本で、戦後日本がアメリカ型文明に過剰に適応してきたことを批判しながら、オルテガの「外部への適応を専らにするのは、その文明にとって命取りになる」という言葉を引用している。ドストエフスキーの愛読者は、このオルテガの言葉をそのままドストエフスキーの言葉だといっても、おそらく気づかないだろう。なぜならドストエフスキーも自分の「土壌主義」について述べるとき、同じことを繰り返し述べているからだ。
 さて、西部は戦後日本が米国を模倣し、日本固有の文明を滅ぼしていると述べる。引用しよう。

 その(オルテガの:萩原)予測通りに、戦後日本は、社会形態として「最高度に発達した大衆社会」を現出させ、世論(西部によれば「世間で流行している暫時の意見」、つまり流行:萩原)による輿論(西部によれば「歴史という伝統を運搬する車の輿[台]にいる庶民の常識的な判断」、つまり常識:萩原)の駆逐、という事態をもたらした。明治期からの流れでいえば、諭吉の批判した「開化流、改革者流、心酔者流」の「情報を有した愚者」たちが垂れ流すブルシット(糞ったれの嘘話)で日本列島がついに水浸しになったのである。
 こうした近代化・大衆化・民主化の高波が合理化によって促進されたことを見逃してはならない。ここで合理主義というのは一種の社会病理であって、「人間社会の未来を(確率的に)合理的に予測できる」とする迷妄の態度である。
 (民主党の:萩原)マニフェスト政治がその迷妄の見本であるが、そこでは「政治における合理主義」を厳に戒めたマイケル・オークショットの知見が完全に忘れられている。同じことだが、社会の全体を合理的に設計しようとするのをコンストラクティヴィズム(設計主義)と名づけ、それに馳せ参じるのを「知識人の裏切り」と呼んだフリードリッヒ・フォン・ハイエクの警鐘も彼ら合理主義者には聞こえていない。ワンス・フォア・オール(一回限り)のものである歴史現象には科学的予測は不可能であるという真理が、「合理のほかには何も知らない」狂人にはわからないのである。(pp.244-245)

 この西部の民主党マニフェスト政治を批判する文章は、ドストエフスキーのチェルヌイシェフスキーをはじめとする当時の合理主義者たちに対する批判(特に『地下室の手記』で述べた批判)と基本的には同じものだ。
 ただドストエフスキーが西部と異なるのは、彼が帝政や農奴制を批判するチェルヌイシェフスキーたちを頭から否定するのではなく、『作家の日記』などで、彼らの農奴制批判を肯定しながらも、その彼らの批判の根拠になっている合理主義だけを批判しているというところだ。私が西部に覚える不満はこの点だ。西部は菅直人に対してこのような丁寧な批判を行わないで、頭から全否定している。
 たとえば、西部は菅直人を全否定するとき、菅の合理主義だけではなく、菅がかつての薬害エイズ事件や今回の原発停止で果たした役割まで無意味なものだと否定しているのだ。言い換えると、西部にとっては、自分から見て誤った思想を持っている者(たとえば西部にとっての菅直人)なら、いくら正しいことをしてもそれは間違っているのであり、また、自分から見て正しい思想を持っている者(たとえば西部にとっての福沢諭吉)なら、いくら間違ったことをしてもそれは正しい、ということなる。これは明らかに変だろう。ここには、西部もあとで私が引用する文章で述べているように、人間は不完全な存在であるという前提がすっぽり抜けている。正しい思想を持っているだけでは正しい行いを成しているという証明にはならない。その人物が何をしたかということだけが問題なのだ。根っからの詐欺師が、線路に落ちた人を助けようとして電車にひかれて死んでしまうことだってありうるのだ。
 それに、西部は菅直人など民主党の議員たちがなぜ伝統を否定する合理主義者であると断定できるのか。伝統を肯定するも否定するもそれは程度問題ではないのか。菅直人にしても表面には出さずとも、西部や福沢諭吉と同じように有機的な伝統を尊重する者であるかもしれないではないか。そのような疑いをもたずに菅直人たちを単なる合理主義者と見るところに、私は西部の精神の硬直と政治的アジテーターとしての姿を見る。
 つい西部批判になってしまったが、西部とドストエフスキーの思想の類似点の話を続けよう。
 西部の「主権」に対する次のような思想は、そのままドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の大審問官伝説で展開した思想だ。

 主権とは崇高・絶対・無制限の権力のことである。そんな凄い権力は、天皇であれ民衆であれ、実在者に所有させてはならない。なぜなら実在者は知性と徳性においてつねにインパーフェクション(不完全)を免れえないからである。主権は、たかだか、憲法制定権力のような形で法律的な論理のなかで仮構されるものにすぎない。そのことに留意すれば、民主主義は、理想論としても現実論としても、排されなければならない。許されるのは「民衆政治であって民主主義ではない」のである。この簡明かつ重要な事柄が完全に無視されている。そうである以上、日本のデモクラシーがどれほど乱脈をきわめようとも驚くには当たらない。その乱脈のまぎれもなき証拠、それが民主党政権の誕生ということなのだ。(p.241)

 無制限の主権、つまり無制限の自由をもつことができるのは実在を超越する者、つまり神だけであり(神中心主義)、その主権が人間に与えられるとき(人間中心主義)、彼らはその自由を行使することによって、たがいに嫉妬し合い、搾取し合い、相手を死へと追いやる。自分以外の者が餓死してもなんとも思わない。彼らの模倣の欲望は無限大にふくれあがる。このため、見るに見かねた大審問官が現れ、その殺し合っている人間たちから自由と主権を取り上げる。つまり、彼らの自由と主権の源泉となっている彼らの所有物を取り上げ、彼らにそれを「平等に」分配する。このとき初めて彼らの模倣の欲望は止む。このような社会には奴隷しかいない。自由もない。あるのは奴隷としての平等だけだ。神なき世界においては、自由か平等かの二者択一しかない。
 このように、大審問官伝説で描かれていたのは、神なき世界では、たがいがたがいを貪り食う資本主義社会か、誰もが奴隷になるしかない全体主義社会主義あるいは共産主義)社会しかあり得ないということだった。これがそのまま先に引用した西部の論理でもあることは明らかだろう。このため、西部は社会主義的な政党として、日本の民主党だけではなく自由民主党にも落第点を与える。西部にとっては、どちらもダメな政党なのだ。
 ところで、西部は現実の政治において、ドストエフスキーが大審問官伝説で批判したような事態を乗り越えられると思っているのだろうか。たぶん思ってはいない。しかし、政治家たるもの先の自分の話、つまり私の言葉で言えば、大審問官伝説で述べられているような話ぐらいは理解できる能力を持っていてほしいと願っていることは確かだろう。そのような政治家ばかりであれば、小沢一郎のような無制限の主権者が現れ、民主党の代表であったとき、党の巨額な組織対策費をくすね、自分の仲間(たこつぼ)だけに配ろうとしても誰も受け取らなかっただろう。しかし、現実には、輿石や山岡などが喜んで受け取ったのだ。輿石と山岡、ハイエクとは言わないが、ドストエフスキーや西部ぐらい読めよ。

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(9月22日、文中、終わりのほう、「小沢一郎のような無制限の主権者が現れ、民主党の先の幹事長時代」という一節を、「小沢一郎のような無制限の主権者が現れ、民主党の代表であったとき」と訂正しました。)