種をまく

 ようやく大根と蕪(かぶ)の種(たね)をまくことができた。大根と蕪は種をまくまえに堆肥と苦土石灰、それに油粕を入れた畝を一週間寝かせる。その一週間寝かせて、さあ種をまこうと思ったとき豪雨があった。種まきは延期。畝を作り直し、ようやく今朝まくことができた。今年は二種類の大根を作ろうと思う。青首と太大根。
 私だけかもしれないが、種をまくときはいつも不安になる。果たしてこんな風に種をまいて育つのか、これは良い種なのか悪い種なのか、という風に。しかし、まかなければ育たないから、ともかくまいてしまう。
 これは人に接するときに似ている。自分はこんな風に振る舞って、悪い種をまいているのではないのか、こんな風に振る舞っていいのか、と不安になる。とくに相手が子供や未成年者の場合、この不安は大きい。自分の言動が悪い種になって、相手の人生を狂わせてしまうのではないのか、と不安になる。
 この点、バッハの音楽は完璧だ。バッハの音楽に悪い種はひとつもない。いつ誰が何を聴いても悪い影響を受ける恐れはまったくない。心が晴朗になる。バッハが嫌いな人は聴くのをやめるだけだ。
 昔、三十歳の頃、過労のため離人神経症になり、死ぬべきところをバッハに救われた。私をバッハに導いてくれたのは森有正だ。それまでたんに美しい音楽としてしか聴いていなかったバッハが、私にとってなくてはならない存在になった。そのとき、バッハは私にとって暇つぶしの音楽から芸術になったのだ。芸術とは自分にとって不可欠な作品のことだ。自分にとって必要ではない作品は芸術ではなく、暇つぶしか虚栄を満たすものにすぎない。
 離人神経症であった私に聴けたのはバッハの短い作品だけだった。病が癒えるとともにしだいに長い曲も聴けるようになったが、いまも一息つきたいときは、コラールを聴く。バッハのコラールはすべて好きだが、「おお、人よ、汝の大いなる罪を嘆け」などはとくに好きだ。演奏はこれまで森有正とヴァルヒャのオルガン演奏を繰り返し聴いてきたが、今はアンジェラ・ヒューイットの演奏するピアノ版が気に入っている。彼女の演奏には大仰なところが全くない。きっと謙虚な人なのだろうと思う。