コヘレト

 きょうはカトリック尼崎教会で、小川正巳先生のお通夜だった。享年97歳。先生は私の親父と同じ年に生まれた。私の親父は70過ぎに亡くなったが。
 小川先生に入れといわれて私が入った文芸同人誌の『たうろす』の同人は、遅れて中尾が来たのみ。中尾によれば、同人諸氏も年を取って、来るのが困難だということだった。病気で酒が飲めなくなった中尾を相手に、「王将」で餃子をさかなに私ひとりで飲む。小島輝正と小川正巳の話をする。
 小川先生は私の恩人であった。学生の頃、私が先生の文学概論のレポートの代わりに、苦しまぎれに小説まがいのものを書いて出したところ、呼び出され、「あんたはオダサクみたいになれ」と何度も言われ、その気になり、下らない小説をいくつか書いた。
 小川先生は三高時代、織田作之助の親友だった。オダサクが東大のニセ学生になるのを手伝い(先生は東大生になったが、オダサクは三高を中途でやめていた)、旅館の仲居をしていたオダサクのお姉さんから小遣いを巻き上げる片棒をかついだ。
 私は小川先生に深く感謝している。もし、あのとき小川先生が私に小説を書くのをすすめてくれていなかったら、生きる目的を失っていた私は死んでいただろう。人間というのは、下らない目的でもいいから、生きているためには、とにかく何か目的をもたなければいけないのだ。
 私は小学校では祖一先生(男性)、中学校では下村先生(男性)、高校では土井先生(女性)、大学では小川先生(男性)、と、続けて良い先生に出会うことができた。彼ら一人でも欠けたら、私はたぶん生きていなかっただろう。
 お通夜の司式司祭はジョヴァンニ・デリア神父だった。小川先生の名前がアウグスチヌスだということを初めて知った。あの罪深いアウグスチヌスかと思い、いかにも小川先生らしいと思った。
 司祭は小川先生の人柄を紹介しながら、小川先生が尼崎にいるブラジル人労働者に日本語を教えてきたという事実をあげた。キリスト者であった小川先生は私が知る昔から、社会的に弱い立場にある人とともに生きていた。このため、左翼であった小島輝正とも友人であることができた。
 司祭は小川先生を追悼しながら、コヘレトとマルコを読んだ。

コヘレト 3章1節〜11節

何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。

人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

福音書 マルコ15章33節〜39節

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。