NHKで放送されている「100分 de 名著」はいつも録画していて、あとで見るようにしているのだが、見るのをサボっている。というのも、見ても、がっかりすることが多いので、しだいに録画するだけになったのである。そして、結局は見ないまま消去することのほうが多くなっている。
で、先日も消去しようと思って録画装置を操作していると、亀山郁夫の『カラマーゾフの兄弟』の講義が録画されていたので、最終回だけを見た。
見て驚いたのは、『カラマーゾフの兄弟』冒頭のエピグラフを引用しながら、亀山が自分の想像する、存在しない『カラマーゾフの兄弟』の続編について語っていたことである。
亀山によれば、その続編でアリョーシャによる皇帝暗殺の計画が実行されるということだ。これはドストエフスキーが生前、友人にそういう執筆プランを洩らしていたという噂もあるので、亀山がそういう想像をしてもかまわないと思う。そして、その実行役をコーリャが担うと想像してもかまわないと思う。しかし、そうなるためには、そのあいだにいくつもプロットがあり、そのプロットの輪が連なって、皇帝暗殺が行われると想像しなければならない。それがどんなプロットか、私の凡庸な脳味噌でも何とか思いつくことは可能だが、私はドストエフスキーではないので、そういう想像、というより、妄想はしないようにしている。
しかし、私が驚いたのは、以上のことではない。驚いたのは、亀山が『カラマーゾフの兄弟』冒頭にエピグラフとして掲げられているヨハネの福音書の言葉を、アリョーシャの皇帝暗殺計画を暗示するものとして解釈していたことだ。
そのエピグラフとは次のようなものだ。
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて
死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし
死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
(ヨハネによる福音書、第十二章二十四節)
(原卓也訳、新潮文庫)
亀山は、このヨハネ福音書の言葉を、革命家の自己犠牲を暗示している言葉として解釈している。要するに、皇帝を暗殺し、そのため死刑になる革命家の自己犠牲を賞賛していることを暗示していると解釈しているのである。
しかし、そのように解釈するとすれば、亀山は『カラマーゾフの兄弟』全体をまったく理解していないことになる。なぜなら、このエピグラフは『カラマーゾフの兄弟』全体を貫く思想あるいは信仰を示す重要な言葉であるからだ。
本田哲郎によるヨハネ福音書の訳は次のようになっている。
一(ひと)つぶの麦は、地におちて死ななければ、
一(ひと)つぶのままである。
しかし、死ねば、多くの実をむすぶ。
そして、その続きは、こうなっている。従来の聖書の訳では分かりにくいところを本田は明快に、次のように訳している。
自分自身に愛着する人は、自分をだめにし、
この世につながる自分自身をあとまわしにする人は
永遠のいのちに向けて自分を守りとおす。
(ヨハネによる福音書、12:24-25)
(本田哲郎訳、「小さくされた人々のための福音――四福音書および使徒言行録」、新世社)
要するに、このヨハネ福音書の言葉は、私のいう自尊心の病に憑かれた人(「自分自身に愛着する人」)に向けて述べられた批判の言葉なのである。ここには暴力革命への呼びかけはない。いや、むしろ、そのような暴力に加担するヒューマニスト(人間中心主義者)に対する激しい怒りがこめられていると見るべきだ。言うまでもないことだが、暴力革命は人間中心主義の延長上にある。
私はこの番組を見て、亀山が『カラマーゾフの兄弟』をまったく理解していないこと、それだけではなく、信仰や思想とは何かということさえまったく理解していないことを改めて確認し、心から悲しいと思った。また、そんな愚かな番組をNHKが放送していることに怒りさえ覚えた。世の中は目が見えず耳も聞こえない人間ばかりなのか。何ということか。