虚栄嫌い

 前稿で私は「朝日に戻ったのは、その文章が良かったからだ。読売を講読していたときは、その文章の肩の力が抜けたような平凡な調子に物足りなさを感じ、産経を講読していたときは、その頭の悪い人が書いたような文章(失礼!)に戸惑い、結局、朝日に舞い戻ったのである。」と、書いたが、これは決して読売新聞や産経新聞にたいする悪口ではない。いや、結果的に悪口になっただけで、私は悪口として書いてはいない。これは悪口ではなく、褒め言葉なのである。と言うと、また言いすぎになるが、まあ、だいたいそういうところだ。私は年を取るにつれ、しだいに虚飾に満ちた文章が受け付けなくなり、疲れたときなど、たとえば、深沢七郎田中小実昌古山高麗雄吉田健一などの「肩の力が抜けたような平凡な調子」の「頭の悪い人が書いたような文章」を読んでは肩の凝りをほぐしている。したがって、私が先のように書いたのは、当時、私がいわば、朝日新聞依存症みたいな風になっていて、朝日の反体制的な、キリッとした、虚栄に満ちた、優等生のような文章でなければ身体が受け付けないようになっていたからにすぎない。要するに、私が愚かであったということだ。だから、今は、朝日みたいになってはいけないな、という自省の意味をこめて、朝日を愛読しているのである。
 このような虚栄嫌いの傾向は年を取るにつれて、ますます強まってきて、朝日新聞みたいに、ちょっとでも賢そうなことを言う人がいると、逃げ出すことにしている。そして、できるだけ、人にバカにされそうなことばかり言うようにしているのだが(と、言うより、それが私の本当の姿なのだが)、そういうことばかり言っていると、まわりから女性がいなくなり、読売新聞や産経新聞のような男ばかり集まってくる。それはそれでまた、うっとうしいことなのである。やはり、虚栄も少しは必要なのかな、と、反省するきょうこのごろである。