文脈が読めない人

 「匿名について」で述べたように、私は亀山郁夫ドストエフスキー論を知るまで、インターネット上の掲示板には関心がなかった。インターネットというのは外国の新聞や雑誌を読むための道具だと思っていた。しかし、亀山のドストエフスキー論を賞賛している掲示板があることを知り、それからさまざまな掲示板を見るようになった。参考になることもあったが、参考にならず、不快になることの方が多かった。
 その私を不快にさせた文章には二種類あり、ひとつは、いわゆる品性下劣な文章で、これについて説明の必要はない。
 問題は、もうひとつの不快な文章、つまり、文脈が読めない人の書いた文章だった。わざと文脈が読めないふりをしているのか、それとも、本当に文脈が読めないのか、それは分からない。分からないが、文脈が読めていないことは明らかで、そういう文章を読むと、何とも言えず不快になった。
 これはインターネットの掲示板だけではなく、新聞や雑誌でも同様の文章に出会うことが増えた。たとえば、政治家へのインタビューで、文脈を無視しながら話し手の言葉の一部を取り上げて激しく罵倒するとか。
 もっとも、こういうことは新聞記者が昔からしていることで、「新聞」で述べたように、私も中学生の頃、それを身をもって知った。だから、政治家だけではなく、私たちは誰でも、新聞記者のインタビューを受けてはいけない。少し誇張した言い方になるが、新聞記者というのは病的な作話者と変わらない。
 しかし、それでも、昔の新聞記者には自分が病的な作話者だという意識が少しはあったように思う。それは新聞記者といえども、文脈が読めたからだ。文脈が読めているのにもかかわらず、話を面白く、あるいは劇的にするため、作話する。これが昔の新聞記者の生態だったように思われる。
 ところが、最近は、新聞記者に、その自分が作話しているという意識というか恥じらいそのものがまったくなくなったように思われる。つまり、そのインタビュー全体を読めば、記者がインタビューの文脈を無視して作話しているのは明らかなのに、「そんなこと知りません」という風に居直る、という記者が増えたように思われる。具体例は政治家へのインタビューからいくらでも挙げられるが省略する。
 こんなことになったのは、ほんとうに文脈が読めない記者が増えたためではないのか。文脈が読めないので、良心の痛みをなにも覚えず、平気な顔をして、文脈を無視して片言隻句を取り上げ、インタビューされた当人を罵倒できるのではないのか。私はそう疑うのである。
 話は変わるが、いや変わらないのだが、私は最近「機能的非識字(Functional illiteracy)」という言葉を知った。「非識字(illiteracy)」というのは、いわゆる文盲のことで、字を読んだり書いたりできないということだ。私が子供の頃、こういう人は多かった。横道にそれるが、私を育ててくれた人も非識字者だった。非識字になった理由はよく分からないが、たぶん、職業上、文字を読んだり書いたりする必要がないので、小学校で字を習っても、次第に忘れていったのだろうと想像している。私を育てたその人は自分が文盲であることをとても恥じていた。子供の私が本を読んでいるとちらちらと横目で見た。今から思えば、その横目がなんとなくうらめしそうに思えたが、それは私の感傷か。
 話をもとに戻すと、「機能的非識字」というのは、読み書きはできるが、それが十分にできないことを指している。文脈が読めない新聞記者も「広義の」機能的非識字者に入るだろう。
 ネット上の「産経ニュース」(2014年5月12日)では、「機能的非識字」について、次のように報じていた。これはイタリアの新聞をそのまま訳したものらしいが、同じことは日本のインターネットの掲示板への一部の投稿者や一部の新聞記者にも言えると思う。

 新たな「非識字者」が増えている Facebookを読めても、現実は理解できない人たち


 「非識字者」とは、読み書きのできない人だけを指すのではない。読み書きはできるけれど、新聞記事の内容を理解できないなど、満足に使いこなすことのできない「機能的非識字」が存在する。「非識字者」とは、言うなれば「名前の代わりに『X』で署名をする人」のことを指す言葉だった。しかし、いまやその定義では足りない。
 非識字者とは、自分の名前は書けるし、Facebookで近況をアップロードできるけれど、「社会の中で能動的に活動するため、自身の目的を達成するため、自身の知識や能力を発展させるために、文章を理解し、評価し、利用し、関与していく能力をもたない人」のことでもある。
 最近のOECD経済協力開発機構)のPIAAC(国際成人力調査)の結果が教えてくれたことだが、2つの異なる非識字が存在するのだ。後者は「機能的非識字」とよばれ、イタリアにおいては10人のうちほぼ3人がこれにあたる。そしてこれは、ヨーロッパで最も高い数字だ。
 機能的非識字者は自分で文字を書けるのだから、一見、自立しているように思える。しかし彼らは、例えば保険の約款を理解できない。新聞に掲載されている記事の意味も分からないし、文章の要点をつかんだり、感動したりすることができない。図表を読み取ることができない。したがって、自分が生きている社会の構造を解釈し、把握することができない。
 このような分析能力では、複雑さを忌避するのみならず、複雑な出来事(経済危機、戦争、国内もしくは国際政治、金融取引のスプレッド)を前にしても基本的な理解すら得ることができない。
 したがって、機能的非識字者は、自身の直接的経験と比較することによってのみ、世界を解釈する(例:経済危機は自身の購買力の減少でしかない。ウクライナにおける紛争は、ガスの料金が増加して初めて問題となる。税金のカットは(それが公的サーヴィスのカットにつながるとしても)正しい)。そして、長期的な結果を考慮に入れた分析を練り上げる能力をもたない。
 1974年にシンガーソングライター、セルジョ・エンドリーゴは、作家ジャンニ・ロダーリから着想を得て、レコードに次のような啓発的な口上を刻んだ。
 「ナポレオン・ボナパルトは1769年8月15日アジャクシオで生まれた。1784年10月22日にブリエンヌの陸軍幼年学校を去って陸軍士官学校の生徒となった。1785年9月に少尉になった。1793年に将軍になり、1799年に第一執政になり、1804年に皇帝になった。1805年にイタリア王になった。そして、この日付を全て覚えていない者は、落第するだろう!」
 しかし、1974年以降、物事は全般的に悪化した。
 学校組織は定着度テスト(ヨーロッパの能力評価のための手段)のみに気を取られ、教育のもつべき視野を、授業計画のチェックと学年末試験へと変えてしまった。しかし、定着度テストに寄りかかった学校の外に取り残されるのは何だろうか?(その上、こうしたテストにおいて、イタリア人は優れた成績を収めているわけではないのは皮肉なものだ)。取り残されるのは、まさに、興味深い本を選ぶ能力、読書に没頭する能力、新聞を購入する選択、経済的・政治的提案をその(非常に大きな)総体において評価する能力のような、ひとりの人間を機能的非識字者ではなく能動的な市民にする能力だ。
 OECDの警告に答えるために、この国は、能力の概念そのものを転倒させなければならない。イタリアに根強く残る教条主義的な教育が生むのは、生徒の声を「拒絶」する学校であり、教育しているように見えて実際は何も教育しない学校だ。能力を育て上げ、評価する教育は、「受容」して、世界を理解するための道具を教える学校へと結実する。
 機能的非識字者はナポレオン・ボナパルトが1769年8月15日にアジャクシオで生まれて、1805年にイタリア王になったことを暗記することはできるだろう。しかし、そうはいっても暮らしている社会の複雑さを受け入れて分析するための道具は持たないだろう。
 彼らもまた、私たちの学校からしばしば落第していく若者たちと同様に−−日付を暗記することすらもできない若者たちだ−−、ガス料金が値上げされてようやくウクライナの紛争を問題と思う、あの大勢の人々の一部となる危険がある。

 こういう「機能的非識字者」の増加を食い止めるもっとも有効な方法は、若いときから小説、それも文脈をちゃんと読みとらないと理解できない長編小説、たとえば、ドストエフスキーの長編小説などを読ませることだ。我田引水みたいで具合が悪いが、これはその通りなのである。