何を読むか(1)

「蟻の自由」(古山高麗雄

「どうせ死ぬなら、女を知ったって知らなくたって、すぐなにもかもなくなっちゃうじゃないか」
 と僕が言うと、
「きみは、散々遊んできたから、そんなことが言えるんだ。俺はそうはいかん」
 と小峯は言いました。
「そうか、じゃ行こう」
 そう言って僕たちは、連絡所の近くにあった慰安所に行ったのです。慰安婦は台湾人でした。部屋の隅に、水を張った洗面器が置いてあって、使用済みの突撃一番(軍隊で配給するサック)がいくつか浮かんでいました。小峯の敵娼(相手をする売春婦:萩原)は感じの好さそうな女でしたが、小峯の部屋にも洗面器があって、突撃一番が浮かんでいるのだろうな、と思いました。
 僕の敵娼も、人の好さそうな女でした。僕が料金を渡すと、素早く薄い生地のズボンを脱いで、寝台に横たわりました。
「あのね、私、今日、しない」
 と僕が言うと、彼女は上半身を起こして、
「どして」
 と言いました。
「今日ね、友達する、私、しない」
「どして」
「どしても、ごめんね」
 と僕が言うと、
「あなた、病気ですか」
「そう、病気です。私、病気でここに来る、上等ないね、ごめんなさい」
 と僕が言うと、彼女は、
「病気なおったら、またいらっしゃいね」
 と言いました。
 その後、小峯は、一人で慰安所に行けるようになって、カバナツアンでも、クアラルンプールでも、ネーバン村でも、二度と僕に、一緒に行ってくれ、とは言いませんでした。僕は、散々遊んで来たからではなくて、たぶん、自分も死ぬと決めているからでしょう。慰安所に行く気になれません。そんなふうになった僕を、祐子は想像できますか?出征前、僕が三業地(売春宿のこと:萩原)から帰ってくると、祐子から、「穢(きた)ないわ、兄さん」と言われたことを思い出します。
 でもね、祐子、兵隊が慰安所に行くのは、「穢なさ」もないぐらい、虫的なんだよ。
 よく兵隊は、自分たちを虫けらみたいだと自嘲します。それはそうだと思う、僕も。ただ兵隊が自分たちのことを虫けらみたいだと言うとき、兵隊たちは、愚弄されながら死んでしまうのだという気持で自嘲するわけです。
(中略)
 兵隊と慰安婦の出合いなど、蟻と蟻との出合いほどにしか感じられないのだ。また、僕と小峯の結びつきにしても、たまたま同じ目薬の瓶(びん)に封じ込まれた二匹の蟻のようなものではありませんか。
(僕は、小峯に友情を持っているとは言えません。)

 悲しいとき、思わず手の伸びる本がある。たとえば、黒田三郎の詩集とか古山高麗雄の小説とか。とても若い頃は、そういうとき、伊藤整の詩(『雪明かりの路』)とかヘンリー・ミラーのエッセイ(『わが読書』)を読んでいた。それが年を取るにつれて少しずつ変わってきて、いまは黒田三郎古山高麗雄になっている。
 私は古山高麗雄の脱力した文章が好きだ。虚栄に満ちた文章を目にしたあとなど、古山の文章が読みたくなる。
 古山の小説には戦場の慰安婦(売春婦)がよく出てくる。慰安婦と兵隊のどちらが可哀想かと言うのは、あまり意味がないように思う。可哀想と言えば、どちらも可哀想だ。