井伏鱒二

 私は高校の頃、井伏鱒二が好きで、その作品はだいたい読んだ。愛読するようになったのは、高校の図書館で偶然、井伏の「鯉」という短篇を読んだからだ。「鯉」というのは、青木南八という友人の死を悼んだ私小説だ。
 「鯉」にとても感心したため、「鯉」のような文章にまた出会おうと、ひまがあると井伏の作品を図書館から借りだして読んだ。しかし、「鯉」のように密度の高い作品に出会うことはできなかった。それでも、井伏に対する好印象が薄れることはなかった。早稲田の学生だった井伏が同性愛者の片上伸(天弦)教授(ロシア文学者)に追いかけられ、瀬戸内海の小島に逃げて身を隠したてんまつを書いた随筆(『鶏肋集』に収録)など、同情しながら読んだ。
 ただ、愛読はしていたが、心服するというほどではなかった。それは、太宰治が死の前に書き残した文章が気になっていたからだ。
 井伏の友人というか弟子といった関係になるのかよく分からないが、その太宰が山崎富栄と入水自殺する直前、紙切れに「井伏さんは悪人です」と書いていた。これがずっとひっかかっていた。
 なぜひっかかっていたのかというと、太宰というのは変な壊れ方をしていた男だが、人をおとしいれるような嘘を書くような男ではないという確信があったからだ。
 というのも、話せば長いことながら、私に太宰を教えてくれた、高校の土井先生(在日の人だったと最近知った)が太宰は正直だと常々言っていたからだ。失礼ながら、土井先生も変な壊れ方をした女性だったが、嘘をつくような人ではなかった。さらに、私も土井先生の影響を受けて太宰を読んだが、土井先生の言うことは正しいと思った。
 話がわき道にそれるが、私はブラスバンド部の部長をしていたこともあり、ブラスバンド部の顧問であった土井先生に非常に可愛がられたと思う。ブラスバンドの練習が終わると、よく加古川駅前の検番筋にあった「銀月」という汁粉屋に連れて行かれ、汁粉をごちそうになった。そして、すでに卒業していた誰それという男子生徒がとても好きだと、先生は私にこっそり打ち明けた。そんなことを言われても、私は途方に暮れながら汁粉にむせるだけだった。こういう例を挙げたのは、先生がほんとうに正直な人だったことを言うためなのである。
 ところで、その後、ドストエフスキーをやるために大学に入った私は、ドストエフスキーがいつまでたっても分かるようにならないので、苦しまぎれに、大学院に入り、ドストエフスキーの天敵だったサルトゥイコフシチェドリンの研究を始めた。始めてすぐ、彼の『童話』という風刺作品を集めた短編集のうちの「賢明なスナムグリ」という短篇が、井伏の「山椒魚」にそっくりだということに気づいた。農奴制ロシアと天皇制の違いはあるが、時代の閉塞感の比喩的表現など、そっくりだった。
 もちろん、作品が似ていても、それだけでは盗作とは言えない。井伏にはそれ以外にもゴーゴリの作品にヒントを得たと思われる作品がいくつかあった。それはそれでかまわない。他の作家の作品からヒントを得て作品を書くのがダメだということになれば、世界中の小説の多くが盗作ということになるだろう。
 ただ、井伏が「山椒魚」をチェーホフの「賭け」という短篇にヒントを得て書いたと言ったのにはがっかりした。
 読めば誰にも分かることだが、「山椒魚」と「賭け」はその「イデー」が違う。「イデー」というのはロシア文学ではよく使う言葉で、作品を支えている思想のことだ。「テーマ」、「基本構想」、「主想」と言っても同じことだ。そのイデーが「山椒魚」と「賢明なスナムグリ」では、先に述べたようにそっくりだ。簡単にいうと、どちらも専制的な政治体制を風刺的なかたちで批判する作品になっている。それに、井伏が「山椒魚」を書く以前に、シチェドリンの『童話』は邦訳されていたと思う。私もその古書を参照した記憶がある。
 こういうことがあったため、私は井伏に初めて警戒心を抱くようになった。これはどこかおかしい。太宰が言うように、井伏はやはり「悪人」ではなかろうかと思いはじめたのだ。
 そして、いつだったか、朝日新聞に「黒い雨」はある原爆経験者の手記を書き直したものだという記事が載った。そのあとも、井伏の盗作については諸説が飛びかい、井伏に対する私の高い評価はがらがらと崩壊していった。そのあと、ある雑誌で、痴呆老人になり、車いすに乗った井伏の写真を見た。その姿の無残さに、私は何とも言えない気持になった。
 その後、猪瀬直樹がその太宰治伝で、井伏の「ジョン万次郎漂流記」も盗作だというようなことを述べたが、私はもはや井伏に対する関心を失っていた。大学の研究室を引き払うとき、井伏の本は一部の作品を除いて、すべて古本屋に引き取ってもらった。
 しかし、今でも井伏の「鯉」はすばらしいと思う。