もっともらしい記事

 私は朝日新聞を、字が読めるようになってから、ということは、もう60年くらい読んでいる。しかし、朝日がつくづくイヤになり、他の新聞に乗り換えたことも何度かある。しかし、他の新聞では物足りなくなり、朝日に舞い戻るということを何度かくり返してきた。最近も、あまりにも左に偏った記事が多いので読売か産経に変えようかと思ったが、漱石の再掲載が始まったので思いとどまった。今は漱石の再掲載作品を読むために朝日を講読している。
 朝日のどこがイヤかと言えば、人を教えさとすような、その傲慢な物言いだ。とくにその社説とか天声人語がいけない。読んだあと、「ごもっともです」と言わざるを得ないように書いてある。自分の愚かさを笑うというような「ゆるい」文章はまずない。だいたいが威張り散らかして、どうだ分かったか、愚か者どもよ、という調子で書いている。どうしてこんな文章が書けるのか。子供のときから、秀才だとかもてはやされてきた人が書いているからか。それとも、これが朝日の伝統だということか。
 それでもすべてがすべてそういう記事ばかりではない。オリンピックと同じで、四年に一度ぐらいは、自分を笑うずっこけた記事が載ることもある。そういう稀な記事を書いていた記者が朝日を辞めると言うのでがっかりした。
 どうして辞めることにしたのか、その理由がもうひとつはっきりしないが、朝日が好きで好きでたまらないのなら、辞めたりしないだろう。その記者(稲垣えみ子編集委員)は最後の記事で、こういう。

 もしかして、私はマスコミにいながらコミュニケーションをしてこなかったのかもしれない。新聞とは正しいことをキチンと書いて伝えるものだと思ってきました。でもそうしてがんばって書いた記事の反響は驚くほど少なかったのです。わずかな反響は苦情と訂正要求。「正しいこと」には別の「正しいこと」が返ってくる。それは果たしてコミュニケーションだったのか。
 自分のこととして世の中を見たこの1年、痛感したのは何が正しいかなんてわからないということです。皆その中を悩みながら生きている。だから苦しさを共有するコミュニケーションが必要なのです。なのに分からないのに分かったような図式に当てはめて、もっともらしい記事を書いてこなかったか。不完全でいい、肝心なのは心底苦しむことではなかったか。(『朝日新聞』、「ザ・コラム」、2015年9月10日、朝刊)

 バフチンが、そしてハナ・アーレントが言うように、真実に近づくためには対話を重ねるしかない。しかし、朝日のような、先生が生徒に教えさとすような「正しい」言葉では対話は成立しない。私の勝手な思い込みかもしれないが、稲垣さんはそういうことに思い悩んで退社することにしたのではないのか。もしそうだとしたら、朝日は稲垣さんのような記者の苦しみを受けとめて変わっていかなければならない。どうすれば変わることができるのか。答は簡単だ。謙虚になることだ。朝日のような体質の新聞社にはいちばんむつかしいことかもしれないが。
(注)「威張り散らかして」というのは、私の造語です。間違いではありません。ゴミを散らかすように、あっちでもこっちでも威張るということです。