物語の暴力 

 最近の理研によるSTAP細胞論文の捏造、朝日新聞による吉田調書の誤読、朝日新聞による慰安婦報道の訂正、さらに産経・読売による菅総理原発事故対応に対する誤報、さらに、さまざまな冤罪事件などを見ていると、やはり、私のいう「物語の暴力」、つまり思い込みによる暴力がいかに私たちにとって避けがたい病であるのかが分かる。それは死ぬまで癒えることのない私たちの病だと言えるだろう。
 物語は必ず暴力になる。これがドストエフスキーの作品全体を貫くテーマであると同時に、私のドストエフスキー論のテーマでもある。私たちはこの物語の暴力からどうすれば身をもぎはなすことができるのか。その答はドストエフスキーがその作品群によって述べているように、常に私たちがポリフォニックな世界の中に身を置いているということを忘れないということだ。そのためには自分を無と見なすことが必要なのだが、この無を空虚さとか空しさだと思うとすれば、それは私のいう無ではない。それは自分を何者かであると自負していることだ。自分を何者かであると思っているから、自信を失ったとき、自分を空虚だと思うのだ。それは私のいう無ではない。私のいう無とは傲慢さがない、しかし、同時に隣人愛を実行している状態のことだ。そのような事態を比喩的に表現すれば、『悪霊』の聖書売りの女、『カラマーゾフの兄弟』のマルケルやゾシマになるだろう。