酒鬼薔薇聖斗

 朝日新聞の記事で今月号の『文藝春秋』にいわゆる酒鬼薔薇聖斗事件に関する神戸家裁少年審判決定全文が掲載されているのを知り、その『文藝春秋』を読んだ。期待通り、そこには少年A(自称「酒鬼薔薇聖斗」)の成育歴がかなり詳しく記されていた。この成育歴の大半は、1997年に発表された神戸家裁少年審判決定要旨から省かれていたものだ。
 私はこの成育歴とそれに続く全文を読んで、この事件は起きるべくして起きたという感想を持った。要するに、少年Aが乳児の頃から母親による心理的身体的虐待を受け続け、そのため、共感能力のない子供に育ち、これが結局、おぞましい犯罪を引き起こしたということだ。
 このような事態はすでにドストエフスキーが『悪霊』のスタヴローギンや『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフを描くさいに述べている。ドストエフスキーの身の回りにも同じような事件が起きていたのだろう。
 狂気の段階に達したスタヴローギンやスメルジャコフの妄想と同様、決定全文で詳しく述べられている少年Aの妄想も、あまりにも混乱したものであるため、もはや他人には了解しがたい。しかし、その妄想を生み出す原因となったのは、彼らすべてに母親あるいは母親代わりになる人物が存在していなかったということだ。
 母親あるいは母親代わりになる人物とは、自分を無条件に受け入れ、愛してくれる人のことだ。これは女性とは限らない。人を愛する能力に男女差はないと思う。だから、『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーの場合のように、それが赤の他人のドイツ人医師(男性)であってもかまわない。要するに、たった一度でもいい、自分を無条件に認め愛してくれる存在が現れれば、私たちが少年Aのような犯罪者になることはない。これはドストエフスキーの結論であると同時に私の体験による結論だ。これを甘いと嘲笑する人は、人間の心というものを知らない。