何を読むか(4)

『人生、しょせん運不運』(古山高麗雄

 このシリーズの初回で、「私は古山高麗雄の脱力した文章が好きだ」と述べたが、古山はいつもいつも脱力していたわけではない。やはり人間なので、腹の立つこともある。そういうときは、全身に力が入ったようだ。とくに書きさしのまま亡くなり、絶筆となってしまったエッセイ、『人生、しょせん運不運』では、自分の死を予感したのか、それまで溜めこんでいた怒りをぶちまけている。

 前回にも書きましたが、あのころのわが国はカルト教団(狂信的な宗教集団のこと:萩原)のようなものでした。あの虚偽と狂信には順応できませんでした。
 思い出すだに情けなくなります。自分の国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざというときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹くという。アラヒトガミだの、天皇の赤子(せきし)だのと言う。祖国のために一命を捧げた人の英霊だの、醜(しこ)の御楯(みたて)(天皇の盾となって外敵を防ぐ防人が自身を卑下していう語:萩原:『広辞苑』より)だのと言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊といわれている。
 しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿げたことは言いませんよ。これも前回書きましたが、戦前は、軍人や政府のお偉方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、非国民なのです。
(中略)
 統計をとったわけではありませんから、その数や比率はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わせていた人も少なくなかったと思われます。しかし、すすんであのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったのではないか、と思われます。(『人生、しょせん運不運』(古山高麗雄草思社、2004、pp.106-107)

 という風に、古山は怒り続ける。もう少し引用しておこう。

 満州事変も支那事変も、日本軍の思い上がった蛮行だとしか、私には思えませんでした。
 よその国に入って、その国を荒らして、それを暴支庸懲(ぼうしようちょう:暴虐な支那を懲らしめよ、というスローガン:萩原)だの聖戦だのと言う。そんな理屈が通るわけはないのだけれども、わが国では通しました。日本は満州満州国という傀儡(かいらい)国家を作りましたが、これも五族協和だの王道楽土だの、一応調子の良いことを看板に掲げましたが、もちろん、日本が日本のためにつくった傀儡国ですから、欺瞞の国です。五族というのは、日本、満州、漢、満州、朝鮮、モンゴルの五民族ですが、要職は日本人が独占し、日本の望むがままの国を作ろうとしたのです。
 五族協和というのは、例の美化語であり、偽善語です。あんなに日本がのさばったのでは、協和にはならない。けれどもわが国は、美辞麗句で飾ることで、おそらく、自分自身を偽るのが好きなのです。偽っているうちに、嘘が本当に思えて来る。そういうのが好きな民族なのかもしれません。あとになって、支那事変を東洋平和のための戦争だとか、大東亜戦争を東南アジア諸民族を独立させる戦争だなどと言う。嘘をつきなさるな。結果で動機を変えてはいけない。
(中略)
 昭和十五年、私は、祖国の傲慢と嘘が、いやでたまりませんでした。支那に対しては、日本軍が一方的に悪いと考えていました。その私が、日本のエリートコースにいるということはどういうことか(古山は当時、三高生だった:萩原)。将来、私の嫌っている傲慢と嘘の国で偉くなろうとしているわけではないか。何か矛盾しているのではないか、と思いました。
 これも若く稚ない者の純真で単純な思考だったのかもしれません。しかし、私は支那に攻め入って、殺人、強姦をして、皇威発揚だの暴支庸懲だの聖戦だのと言う自分の国がいやでいやでならなかった。と言って、私には、ひとりでそう思うこと以外なにもできませんけれど。
 とにかくこの国では、出世してはいけないのだ。そう思うのですが、だからといって、さっさとエリートコースから降りる気にもなれない。三高には、優柔不断の私を、矛盾の中に閉じ込めておくだけの魅力がありました。
 京都のあの学生生活も、エリートコース自体も(原文のまま:萩原)。結局、私は十六年の三月、一年で退学することになったのですが、あの学校には、最後まで未練がありました。(『人生、しょせん運不運』(pp.111-114)

 このあと、古山の京都での娼家通いや自堕落な生活について、さらに、軍隊に対する呪詛がつづられるのだが、古山の突然の死によってそれが中断される。
 私は古山のこの遺書とも言うべきエッセイを死ぬまで読み続けるかもしれない。古山が嘆いている日本人の体質は今も変わらない。それはテレビ、新聞、雑誌、それにインターネット上にあふれるさまざまな意見を見ていても分かる。私も古山と同様、日本人の愚かさにうんざりしているのだ。もちろん、すでに述べたように、日本人にも良いところはあるのだが、そういう日本人はだいたい無名の人々だ。テレビ、新聞、雑誌、それにインターネットで派手に発言している日本人の大半がドストエフスキーのいう死産児なのである。