アイヒマン的なるもの

 小林秀雄が『満州新聞』に一九三七年から一九四〇年に書いた文章が見つかったというので、その文章が掲載されている雑誌『すばる』(2015年2月号)を購入した。感想から先に言うと、これまで読んできた小林の文章と同じもので、新しい事実は何もなかった。そして、これまでと同じように、この時期の小林の書いたものにアイヒマン的なるものがあると思った。このことについて少し述べておこう。
 わたしがここで「アイヒマン的なるもの」と呼ぶのは、自分が悪に荷担していることを知っているのに、自分が生きてゆくため、そのことに目をつむるということだ。たとえば、わたしは学生の頃、学習塾で子供を教えるというアルバイトをしていた。自分で言うのもなんだが、とても評判の良い教師だった。しかし、しだいに、自分が金儲けのため子供たちに精神的な暴力を加え、ロボットのようにしていると思うようになり、そこを辞めた。親からの仕送りがなかったわたしは食べていけなくなり、とても困ったが、そのまま働いていたら、狂っていただろう(誤解を避けるため、急いで断っておくが、子供をロボットにしていると感じたのはわたしの主観にすぎない。そうでないかたちで教えている教師はたくさんいるだろう。)。
 わたしたちは自分に嘘をついては生きてゆけない。しかし、自分に嘘をつかなければ生きてゆけないこともよくある。わたしたちは人生のあらゆる瞬間において、そういう事態に出遭う。そして頭を抱えてうずくまる。どうすればいいのか。わたしの場合は、自分に嘘をついて生きてゆくことはできなかった。それは、わたしが正しい人間だということではない。気の小さいわたしは自分が行っている悪に耐えられなかっただけだ。
 やっていることの質も量も大きく違うが、アイヒマンも同じだ。かれは自分が無数のユダヤ人に暴力を加えていることを知っていた。つまり、自分が集められたユダヤ人たちを輸送し、ガス室に送り込んでいることを知っていた。かれはなぜそのような仕事から手を引かなかったのか。それはかれの上昇志向のためであると同時に、自分には何の責任もないと思っていたからだ。かれは自分が国家の歯車にすぎないと思っていた。悪はナチスがつくった国家の構造そのものにあり、ユダヤ人たちと同様、自分もその構造の犠牲者にすぎない、そうかれは思っていた。だから、かれはわたしと違って、自分の行っている悪に耐えることができた。そして出世の階段を登っていった。
 国家や組織の命ずるがままに振る舞っていると、わたしたちはしばしばアイヒマンのような立場に追いこまれる。そんな場合、路頭に迷うのを覚悟して、国家や組織の悪に背を向けることができればいいのだろうが、自分が可愛いと、つい国家や組織の方針に迎合してしまうようになる。満州(いまの中国東北部)に視察に行ったときの小林がそうだった。たとえば、小林は「満州移民村」(のちの「開拓団」)を視察したあと、その村のひとつである瑞穂村の経営がうまく行っていることを賞賛し、記者の質問に答えてこういう。

「・・・この成功の原因を考へると、僕は要するにリアリズムの勝利だと思ふ。満州に夢を描く者は失敗するが、最もリアリスティックである農民という階級が最も着実な歩を踏みしめた所に、この成功がある。それは日本の村をそのまゝ満州に移したことになるが、これが移民の第一歩だと思ふ。こうなると、小地主としての日本村が孤立するといふことも考へられるが、村落内に居る日本人と満人小作人とは極めて円満に行つてゐるし、瑞穂村と他の満人部落との関係も決して悪くはない。結局、僕は徒に大きく空虚なアイデアリズムの敗北を感じた」(『すばる』、2015年2月号、pp.145-146)

 この文章を紹介した西田勝は、小林のいう「リアリズムの勝利」や「空虚なアイデアリズムの敗北」が何を指しているのかはっきりしないと述べているが、意味ははっきりしていると思う。「リアリズムの勝利」とは、日本の農民たちが自分たちの生活をそのまま満州に持ち込んだということだ。そして、地主として満州で生活することによって、満人の小作人たちとうまくやっているということだ。
 ここで小林のいう「リアリズム(現実主義)」とは、空想的・非現実的な考え方の対極にある考え方のことで、自分に与えられた現実から逃げず、その現実を直視しながらその現実に対処してゆくことだ。要するに、それは、日本の農民たちが満州にきても、日本にいたときと同じように創意工夫を重ねながら生活していったということだ。ただ、日本にいたときと違うのは、おそらく貧農であったかれらが満州では満人を小作人にし、自分たちは小地主におさまったということだ。そして、その満人たちとかれらは円満に暮らしている、そう小林はいう。
 一方、小林のいう「空虚なアイデアリズム(理想主義)」とは、当時満州を侵略した日本人が、侵略した罪の意識を隠蔽するために唱えていた「五族協和」(漢族、満州族蒙古族、日本人、朝鮮族の協和)という空疎なスローガンのことだろう。だから、「空虚なアイデアリズムの敗北」とは、そういう空疎なスローガンや理想をかかげる必要などないほど、日本からやってきた農民たちが満州で満人たちと仲良くやっているということだろう。
 言うまでもないことだが、日本の農民たちが満人の小作人と仲良くやっているというのは事実に反している。西田はこういう。

・・・この「満州移民村」はもともと関東軍によって対ソ戦略の「屯田」として計画されたもので、関東軍の武力を背景に「満人」たちからただ同然で買い上げた土地や家屋を、日本から送られてきた貧しい農民(主として在郷軍人)に与えたもの以外ではない。だから、小林も語っているように、日本からきた移民たちは「満州国」では「小地主」となり、反対に土地や家屋を追われた「満人」たちは、その小作人か雇農になり、一部は流浪の民になった。(『すばる』、p.146)

 だから、西田も指摘しているように、このときの恨みのため、敗戦時、関東軍が開拓団を置き去りにしたまま撤退すると、たとえば瑞穂村も、中国人農民に包囲される。そして、数百の日本人男女が服毒自殺している。
 つまり、「村落内に居る日本人と満人小作人とは極めて円満に行つてゐるし、瑞穂村と他の満人部落との関係も決して悪くはない。」と述べた小林は、結局嘘を述べていたということだ。
 小林はなぜこんな愚かな嘘を述べたのか。異国から来た人間に村を占領され、奴隷のように働かされるのが楽しいことであるはずがない、と、子供でも分かるだろう。小林のように明敏な人間にそのことが分からないはずがない。小林が国家に迎合して、あるいは国家の意向を受けた新聞社に迎合して嘘を言ったのは明らかだ。この時期の小林にはしばしばこのような発言が見られる。そして、「歴史」という言葉をベルクソン的に使うことによって、あたかも歴史に巻き込まれた自分には責任がないかのようにいう。これについてはいずれ詳しく論じたいが、論じれば長文になるので、いつ論じることができるのか見当がつかない。
(2015/01/12、「リアリズム」についての文章の前後を中心に、少し書き直しました。)