何を読むか(3)

『孤島』(J・グルニエ)

 私には若い頃、よく理解できないのに、この本は自分にとって決定的な意味をもつと思うことがあった。なぜそんな風に思ったのか。私に未来を見通す超能力があったからか。ばかな。そう思った理由ははっきりしている。私は狂っていたのだ。正気であれば、よく理解できないのに、ある本が自分にとって決定的な意味をもつなどと思うはずがない。そんな風に思わせたのは、私を取り巻いていた空気だ。その空気が私を狂わせたのだ。
 ここで空気というのは、私たちに模倣の欲望をかきたてるもののことだ。たとえば、まわりの人々が、この本はすごい、すばらしい、読まないとだめだ、などと騒いでいるので、その空気に感染し、私もその人たちをまね、自分でもこの本は自分にとって決定的な意味をもつと錯覚したのだ。
 私は高校生のとき、ドストエフスキーの作品をそんな風にして読んだ。
 高校生の時、私は自分のまわりの連中が、ドストエフスキーは素晴らしいと騒いでいるので、それを模倣しただけなのだ。その連中は見栄を張って生半可な知識を振り回していただけなのだろうが、私はなんとなく気になった。そして、水田君という秀才が授業時間中もこっそりドストエフスキーを読んでいるのを見て、私の欲望に火がついた。結局、このときの欲望に私はそれ以来振り回され続け、ドストエフスキー研究者になってしまった。
 と、言うと、少し言いすぎになる。幼稚ではあったが、高校生の私だって少しは作家の良し悪しぐらいは分かった。少し読んで、ドストエフスキー古今東西の作家の中でずばぬけた存在だということぐらいはすぐ分かった。しかし、高校のとき、周囲の空気に感染することがなければ、ドストエフスキーが自分にとって決定的な意味をもつ作家だと思うことはなかったはずだ。ドストエフスキーが私にとって本当に決定的な意味をもつ作家だと分かったのは、その十年後だった。
 このドストエフスキーを読んだときの衝撃が、大学生の頃、私にジャン・グルニエの『孤島』を読ませることになる。グルニエを読む前に、私はドストエフスキー経由でカミュを読んでいた。つまり、カミュがドストエフスキーの弟子であると自認していたので、なめた気持でカミュを読んだのだ。おお、あんたもドストエフスキーの弟子か。わしと同じだな、というような気持だ。そして、カミュの『異邦人』などを読んで、すみずみまで分かると錯覚したのだ。だから、そんなカミュの才能を発見した、カミュの先生であったグルニエも簡単に分かると錯覚し、そのエッセイを読んだのである。
 ところが、『異邦人』などのような小説とは違って、『孤島』が哲学的な装いをこらしたエッセイであったためか、まるでかすみがかかったように、その内容は茫洋としてつかみきれなかった。とくに、その冒頭の「空白の魔力」というエッセイにはまったく歯が立たなかった。しかし、それと同時に、グルニエはその「空白の魔力」で、私がこれまで考えてきたことを、私よりずっと正確に把握しているということだけは分かり、それが私にとってとても重要なことなのだということも分かった。そこで、それが何なのかを突き止めるため、私は大騒ぎをして『孤島』の原書を手に入れ、辞書を引きながら読んだ。今になれば、愚かなことをしたものだと思う。結局分かったのは、自分にはその内容を理解する能力がないということだけだった。
 そんな風にしてようやく正気に返り始めたとき、私は人生につまづいてしまった。自分ではどうにもできない出来事があり、私は離人神経症になった。生きているのが精一杯の状態が続き、ドストエフスキーカミュグルニエもどうでもよくなってしまった。何度も引っ越しを繰りかえしているあいだに、二束三文で蔵書の多くを売り払い、『孤島』もその原書も行方不明になってしまった。
 それから二十年ぐらいしたあるとき、神戸で地震があった直後だろうか、それとも、大阪のある大学に定職を得る直前だったろうか、私は古本屋で『孤島』の訳書に出会った。買うか買わないでおこうか二、三日迷ったあげく、買った。それまで別の古本屋で買う機会は何度もあったのに買わなかったのは、『孤島』は私には理解できないという固定観念があったからだ。
 しかし、驚いたことに、私はいつのまにか、「空白の魔力」が分かるようになっていた。これは『悪霊』のスタヴローギンが書いた文章なのだ。グルニエカミュドストエフスキーのいう死産児だったのだ。なぜそんなことが分からなかったのだろう。それは学生の頃、私も死産児だったからだ。私がグルニエの文章に見ていたのは、自分の姿、それも極限まで正確に描かれた自分の姿だったのだ。私たちは自分の顔を自分で見ることはできない。いくら磨き抜かれた鏡であっても、鏡に映っているのは自分の自意識にすぎない。ありのままの顔を自分は見ることができない。見ることができるのは他人だけだ。自分が死産児でなくなってはじめて、死産児がどんなものであるのかが分かる。私にとって『孤島』とは死産児であった過去の自分を映し出してくれる鏡だ。

空白の魔力

 どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。そんな瞬間は、あとで見出すことが困難だ。それは時刻の堆積の下にうずもれている。時刻は、それの上を無数にすぎて行ったのであり、そうした時刻の虚無は畏怖を感じさせる。すべてを決定する瞬間といっても、かならずしも稲妻のようなものではない。幼少年の全期間にわたってつづき、表向きいたって平凡な年月を、とくべつな虹の光彩で色どっていることがある。ある存在の啓示は、漸進的にやってくることもある。ある子供たちは、まったく自己のなかにうずもれてしまっていて、暁は決して彼らの上にきざしてこないように見える。だから、そういう彼らが、ラザロのように、すっくと立ちあがるのを見ると、まったくおどろかされる。ラザロは屍衣をふるいおとすのだが、彼らがふるいおとすのは、産衣にほかならない。そういうことが、私にもおこった。私の最初の思い出は、数年にわたってひろがっている雑然としたものの思い出、とりとめもない夢の思い出なのだ。私はこの世の「むなしさ」について人からきかされる必要はなかった。それについては、そのこと以上のものを、つまり「からっぽ」を感じたのである。
(中略)
 何歳のころだったか?六歳か七歳だったと思う。菩提樹のかげにねそべり、ほとんど雲一つない空をながめていた私は、その雲がゆれて、空白のなかにのみこまれるのを見た。それは、虚無についての、私の最初の印象だった。そしてそれはゆたかな生活、満ちたりた生活の印象につづいていただけに、一層つよかった。それ以来、私はなぜ一方が他方のあとにつづいておこるのかを、頭のなかで求めようとした。そして、自分の肉体と魂で求めないで自分の知性で求めるすべての人たちに共通の、一種の軽蔑から、私は哲学者たちが「悪の問題」と呼んでいるものがそれなのだ、と考えた。ところで、それは、もっと深刻で、もっと重大な事柄であった。私は、自分の前に、瓦解ではなく、空隙をもったのだ。口をあいたその穴のなかに、すべてが、完全に何もかも、のみこまれてしまう危険があった。この日づけから、私にとって、物の現実性のはかなさにたいする反省がはじまった。「この日づけから」といってはいけないだろう。なぜなら、われわれの生活の諸事件は――いずれにしても内的な事件をさすのだが――そうした諸事件は、われわれ自身のなかのもっとも深いものが、つぎつぎと啓示されることでしかない、と私は思いこんでいるからだ。してみると、日づけの問題は大して重要ではない。私というのは、生きるべく運命づけられている人間というよりも、なぜ生きているかを自分にたずねるべく運命づけられている人間のひとりだった。いずれにしても、いわば人生の「余白に」生きるべく運命づけられていた。
(後略)
(J・グルニエ、『孤島』、井上究一郎訳、竹内書店新社、1979、pp.25-28)