グルジェフ

 ヘンリー・ミラーの『わが読書』は、二十歳前後の私にとって聖書のような本だった。とくに、ドストエフスキーD・H・ロレンスについてミラーから教わったことは多い。多すぎる。「ピエール・レダンへの手紙」など、今読み返しても、ほんとうに素晴らしいとおもう。
 一昨日だったか、なぜかグルジェフのことが頭に浮かび、なにげなしに『わが読書』の索引を見ると、グルジェフについては一箇所しか言及がなかった。私はグルジェフのことをヘンリー・ミラーの『わが読書』から知ったと思っていた。これはどうしたことだろう。若い頃、グルジェフグルジェフと騒いでいたはずなのだが。
 今、私はグルジェフの本を一冊も持っていない。自宅のアパートが狭いので、英語のものも含め、研究室にあったものはすべて古本屋に引き取ってもらった。10冊以上はあっただろう。いや、もっとあったかもしれない。要するに、私はオカルトにはうんざりしていたのだ。だから、グルジェフと別れたのだ。しかし、グルジェフの言っていたことの多くは正しいと思っている。たとえば、『わが読書』にはグルジェフの次のような言葉が引用してあった。

 「もしあなたがあなたの生涯のうちに読み取ったすべてのことを理解しているなら、あなたはすでにいま自分の求めているものを知っているのです」

 「生涯のうちに読み取ったすべてのこと」を理解することなど不可能だ。しかし、それが可能だとすれば、グルジェフの言うとおり、自分の未来を予見することも可能だ。これはベルクソンがすでに整然と理論的に述べていることだ。そしてプルーストがすでに『失われた時を求めて』において、比喩的に、かぎりなく繊細な言葉で述べていることだ。グルジェフの言っていることは、私たちが無意識のうちにしていることかもしれないのだ。
 小説を書くとは、そして生きるということは(小説家にとって、それは同じことなのだが)「生涯のうちに読み取ったすべてのこと」を理解しようとする絶望的であると同時に歓喜に満ちた試みなのだ。ヘンリー・ミラーはそのことを直感的に把握していたので、グルジェフのその言葉を書き記したのだった。