何を読むか(6)

ヴェネツィア――水の迷宮の夢』(ヨシフ・ブロツキー

 小説家や詩人とかぎらないが、人と人との付き合いと同様、書き手と読み手のあいだにも相性というものがある。文章の息づかいなのか、間の取り方なのか、それとも血液型なのか(冗談)、ともかく、何だか分からないが、好きにならずにはいられない散文や詩を書く人がいる。若いころの私にとって、萩原朔太郎の詩や伊藤整の詩や小説などがそうだった。小説家ではないが、ハンナ・アーレントの論文などもそうだった。
 ただ、いつも繰り返し読みたくなる書き手というと、これはそう多くはない。いまでは朔太郎の詩や伊藤整の詩は、年に二、三回読むだけだし、アーレントは年に一回ぐらいか。要するに、好きではあるが、彼らは私にとって他人なのである。
 それに対して、このシリーズで取り上げている書き手は、私にとって他人とは言いがたい。何と言えばいいのか、あえて言うなら、家族みたいなものだろうか。それとも、わりと近い親戚のおじさんやおばさんというところだろうか。
 でも、今回取り上げるブロツキーは、私にとって黒田三郎古山高麗雄みたいな、話のよく分かる親戚のおじさんという感じではない。また、ドストエフスキーのような、とてつもない才能をもつ兄さんというような感じでもない。それより、ブロツキーは親友という感じに近い。そういう人間がこの世にいるというだけでうれしい、というような、私とぴったり波長の合う存在なのである。
 いつからブロツキーを読み始めたのか。記憶は定かではないが、たぶん彼がノーベル賞をもらってからだろう。ノーベル賞をもらったから読み始めたのではなく、雑誌か何かで、偶然、彼の詩をちらっと目にして、変な言い方だが(私はヘテロだが)、一瞬のうちに恋に落ちたのだ。気がつくと、私はブロツキーの著作をほとんど手に入れていた。ロシアに行ったときには、道ばたで売っていた古本の選集も買った。一時期、寝るとき必ずその詩を一編読んで寝た。と言っても、辞書が引けず、分からない単語が多かったので、ちゃんと理解したのではなく、適当に分かったように思いこんで寝たのだ。でも、その眠りは快かったように記憶している。
 ブロツキーのどこがいいのか。繊細さ、と言うより、その繊細さが私のこれまで出会った詩人や作家のどのような繊細さとも異なる、奇妙な繊細さなのだ。それは次の翻訳された散文を見ても分かるはずだ。ちなみに、『ヴェネツィア』の訳者である金関寿夫は神戸の、私が属していた同人誌の同人だった人で、私が同人になったときにはすでに東京に移っていた。同人の多田智満子は金関と親しかったらしく、彼女から何度も金関の名前を聞いた。ブロツキーの変なロシア語風英語をよくここまで訳したものだと思う。

 その「超美女(サイト)」を最初に見たのは数年前、ぼくの、例の前世ともいえるロシアでのことであった。女はスラブ学者、もっと正確には、マヤコフスキー研究家というふれこみだった。ぼくの所属していたグループのメンバーとするには、かなり無理があった。しかし彼女をことわらなかったのは、視覚的な理由からだったのだ。背丈五フィート十インチ、ほっそりと優雅な体つき、長い脚、くるみ色の髪の頭は小さくて、アーモンドの形をしたはしばみ色の目。その素晴らしい形のくちびるからは、まあ聞くに耐えるロシア語が飛び出し、くらくらしてしまうようなほほ笑みを口元に浮かべている。紙のように軽いスエードとそれにぴったりあうシルクを見事に着こなして、うっとりするようななんともしれぬ香水の匂いをあたりにただよわせている。ぼくらの心を千々にみだすその女は、もちろん今までぼくらの眼前に現れた女のなかで、一番優雅な人だった。おまけに彼女はヴェネツィア女と来ていた。
 そんなわけで我々は、彼女がイタリア共産党員であることも、我が国の三〇年代のアバンギャルドの阿呆どもにたいする彼女の思い入れも、いずれも西欧の軽薄さのせいにしてそう気には留めなかった。もし彼女がファシストだと公言していたとしても、彼女に抱くぼくらの欲情は変わらなかっただろう。彼女の魅力はまことに圧倒的だった。そしてのちに彼女が我々のサークルの周辺にいた男の中で最低の間抜けと、つまりアルメニア系の高給取りの薄のろと恋に落ちた時、我らおおかたの反応は、嫉妬やただの男の妬(ねた)みといった生やさしいものではなかった。それはもう驚愕や怒りに近かった。もちろん、美しいレース地に濃厚な民族的(エスニック)ジュースのしみが少々ついたところで、あれほど怒ることもなかったろうと、今なら思うのだが。でもそうなってしまったのだ。がっかりさせられたというだけではなかった。それはもうレース自体の裏切りにひとしかった。
 そのころのぼくらは、外見(スタイル)と内面、美と知性とは、切り離せないものだと考えていた。ぼくらは結局のところ、ただ本ばかり読んでいる頭でっかちだった。しかしある年頃には、もしきみが文学を信奉していたなら、まわりのものもみんながきみと同じ意見や趣味をもつか、あるいはもつべきだと考えがちなのだ。だから、もしエレガントに見える人がいたなら、もうそれだけでその人物はわが党の士だと思ってしまう。外の世界を知らなかったし、特に西のことに無知だったから、スタイルが十把ひとからげに買いこむことのできて、美が商品になりうるなんてことには、そのころはまだとんと気づいていなかったのだ。だから彼女の「姿(サイト)」は、ぼくたちの理想と理念の延長であり、具現化であると考えた。そして彼女が着るものはすべて、肌がすけて見えるものもふくめて、文明の産物だとみなしていた。(後略)(『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』、ヨシフ・ブロツキー、金関寿夫訳、集英社、1996、pp.14-16)