悲しい記憶

 トルストイの『アンナ・カレーニナ」』の冒頭に、「幸せな家庭はすべて、おたがいに似ている。でも、不幸な家庭はそのひとつひとつが、それぞれに不幸だ。(Все счастливые семьи похожи друг на друга, каждая несчастливая семья несчастлива по-своему.)」という言葉が置かれている。この言葉の真似をすれば、幸せな記憶はすべて、おたがいに似ている。でも、不幸な記憶はそのひとつひとつが、それぞれに不幸だ。
 とくに、物心がつくかつかないかの頃の、子供のときの記憶はそうだ。
 その頃の記憶ではっきり覚えているのは悲しい出来事だけだ。そのひとつひとつが違う。一方、幸せな出来事はすべてがあいまいで、どれがどの出来事なのか区別もつかない。悲しい出来事は区別がつく。その悲しい出来事によって自分が悲しい存在になったことがはっきりと分かる。
 わたしは子供の頃から何度もその出来事を思い出し物語として記憶した。でも、あまりにも苦痛なので、その物語は断片的なものになった。たぶん小学生の頃、それを(頭の中だけだが)物語として書いた。そして、三十歳になる頃、それをそのまま文字にして、ある同人誌に載せた。読者の反応などどうでもよかった。それでその出来事を忘れることができると思ったが忘れることはできなかった。どうすれば忘れることができるのだろう。たとえば、ドストエフスキーの作品に、疲れ果てた馬が動けなくなり、飼い主に殴られて死んでいく場面がある。そんな場面を子供のとき見ると、死ぬまで忘れることができない。そんな記憶はどうすればいいのか。ドストエフスキーはその悲しい記憶を忘れるために小説を書き続けたのではないのかと思うときがある。