味覚

 人間というものは、自分の生存が脅かされると味覚を失う。吉田健一はそのことについてこう述べた。

 その四年前に、アメリカとの戦争が始まった晩に銀座のバアで飲んでいて、先輩の一人が、戦争が起れば味覚は四十八時間のうちに消滅すると言ったのが、その時は記憶に残った。そうして見ると、戦争が終って、何れは凡てがもとの姿に帰るのだということが解れば、それと同時に味覚も回復して来るのだろうか。(「八月十五日」)

 これはたしかにそうで、戦争ではないが、私も子供が不登校になったときから味覚を失った。子供が生きのびた今、味覚は回復したのだろうか。よく分からない。お腹が満たされれば満足するだけだ。
 子供が不登校になるというのは戦争みたいなものだ。何を食べても美味しくなくなる。ただ私の場合、弱いくせに、また、うまいとは思わないのに、酒だけはやたらと飲むようになった。今は酒は控えているが。
 不登校の子供をもつと親が命を縮めるのは、味覚を失うためもあるのだろう。そう愚考する次第である。