風立ちぬ

 宮崎監督の「風立ちぬ」というアニメ映画を見ました。ドストエフスキーの作品ほどではありませんが、「風立ちぬ」というアニメもポリフォニック(多声的)な内容をもっていると思いました。つまり、この作品をどんな風に見るかによって、見る人の人となりが明らかになるということです。
 私自身は宮崎監督が試写会(?)ででしたか、このアニメを見て泣いた理由がよく分かるつもりです。この作品を支えているのは、堀辰雄の「風立ちぬ」です。小説「風立ちぬ」の冒頭の場面に感動できない人は、アニメの「風立ちぬ」を見ても泣くことはないのだろうと思います。
 泣くことよりも大事なことがあるだろう、と言われれば、それまでです。しかし、それが芸術なのです。芸術作品は論文でも社会評論でもありません。ひとつの完結した作品です。その作品がポリフォニックなものであるとき、鑑賞者のありのままの姿がその鑑賞のしかたに表れるのです。だから、どのような見方をしてもいいのです。だから、こんなアニメは無意味だ、面白くない、と思う人は、それがその人の真実の言葉であれば、それでいいのです。
 中野重治に「歌」という詩があります。朔太郎や犀星の詩は中野のいう「赤まんまの歌」でしょう。堀辰雄の「風立ちぬ」もそうです。それにもかかわらず、私は朔太郎などの「赤まんまの歌」が好きです。なぜなら、詩や小説は芸術作品であり、論文や社会評論ではないからです。
 さまざまな生のかたちがあり、その生の形を言葉によって芸術作品にしたものが詩や小説です。そのような生の多様性を許容せず、ソ連社会主義リアリズムは「赤まんまの歌」のような芸術作品を弾圧し、その作者を投獄し、殺したり社会的に葬り去りました。それは間違いです。芸術というものを知らない者のやることです。


                 中野重治
おまえは歌うな
おまえは赤まんまの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものをはじき去れ
すべての風情を擯斥せよ
もっぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸元を突き上げて来るぎりぎりのところを歌え
たたかれることによって弾ねかえる歌を
恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
それらの歌々を
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸郭にたたきこめ

 言うまでもないことかもしれませんが、中野重治のこの詩の「おまえ」とは、読者である私たちのことではなく、中野自身のことです。中野は自分に約束しているのです。こんな人が人としての尊厳を奪われているような、ひどい情況の中で、お前は赤まんまの歌など歌えるのか、いいえ、歌えません、歌いません、と約束しているのです。この倫理観がこの詩を美しいものにしています。プラトンが真、善、美はひとつの同じ事態を別様に述べたものに他ならないと言いましたが、中野のこの詩はまさにそのような事態を表現しています。
 この詩も含めて中野重治の詩や小説、それにエッセイも、私は好きです。この詩を一般化し、イデオロギー化し、ソ連社会主義リアリズムの信奉者のように「赤まんまの歌を歌うな」と、さまざまな生を生きている人々に強制するのは間違いです。中野重治もそんなイデオロギーを人に押しつけるつもりでこの詩を書いたのではないと思います。また、そんな気持が中野にあったとしても、イデオロギーは人に強制できるものではないということを中野は知っていたと思います。