ピアソラ

 月刊誌とか週刊誌を買うのは年に一、二度だ。買っても読まないのが分かっているので買わないのだが、それでも、どうしても読みたい記事があるときは買う。そんなことは年に一、二度ぐらいしかない。年に一、二度買う月刊誌や週刊誌も、目当ての記事を読むと捨てる。
 こんな風になったのは三十歳を過ぎてからだ。それまではわりと頻繁に月刊誌や週刊誌を買って丁寧に読んでいた。どうしてこんなことになったのか。
 それは週に二〇コマあるいはそれ以上非常勤講師で教え始め(二〇コマ教えると、通常の体力の持ち主は病気になるだろう)、生きているのが精一杯という状態が続いたからだ。
 今もだいたい同じ相場だろうが、当時、大学の非常勤講師というのは週一コマ(90分)教えてボーナスなしで月二万円だったから、専業主婦の嫁さんをもらって子供も成し生活をするには、週二〇コマぐらい教える必要がある。これで二〇×二で月に四〇万円の収入になる。そこから国民健康保険(これが高い)と国民年金(これも高い)を払い、いつ過労で死ぬか分からないので家族のために少し多めに生命保険に入る。で、家賃を払ったり医者にかかったりしていると、生活費はいくらも残らない。もちろん貯金など不可能だ。足りない分はかみさんがパートで稼いだ。
 しかし、これは生活が万事平穏に過ぎている場合のことだ。
 たとえば、私の場合、突然、非常勤の首を切られたり(そういうことはよくあった)、子供が不登校になり、フリースクールに通い始めたり(子供が通っているフリースクールの授業料は私のように貧しい者が払うには高すぎた)、家族の誰かが病気になったりすると、たちまち生活に窮する。私の場合、こういう生活が五〇歳近くまで続いた。
 自慢できることではないが、私が四十歳のとき、かみさんが不登校の子供の世話のためパート勤めをやめたので、論理的必然として、非常勤を五コマ増やし、四十歳から定職につく五十歳直前まで二十五コマ教えていた。ロシア語が十八コマで、残りの七コマが講義だ。ロシア語の授業は学生に練習問題をやらせたりして何とか体力を温存できるが、講義となるとそうはいかない。全力で喋りっぱなしで準備もいるので、一コマやるだけでぶっ倒れそうになる。
 だから、私が二十五コマ教えていたと言うと、大学教師の誰もが「へえ、そんなことができるんですかねえ」と笑うのだが(私を嘘つきだと思っているのだ)、私にできたのだから、できるのである。私が教えていた頃は土曜日も大学の授業があった。このため、夜間大学も教えると二十五コマ教えることができた。
 もっとも週に五コマぐらいしか教えないで下らない論文ばかり書いている常勤教員に嫉妬したり、非常勤講師を鵜飼いの鵜みたいにしか思っていない私立大学の冷酷な扱いに怒ったりしながら教えていると、それだけで体力を消耗し、たぶん十コマぐらい教えただけで病気になると思う。当時非常勤専門の講師のあいだでひそかにささやかれていた法則だが、「(週に)十コマ教えると病気になり、十五コマ教えると再起不能になり、二十コマ教えると死ぬ」ということで、これは真実なのである。実例ならいくらでも挙げることができる。Aさん、Bくん、Cさん・・・あの世やこの世でどうしているだろう。それなのに私は二十五コマ教えていたのだ。大学教師の誰もが私を嘘つきだと思うのも無理はない。
 なぜ私は死ななかったのか。それはすでに死んでいたからだ。ようやく三十すぎに自尊心の病から抜け出し、無への運動を開始していたからだ。自分を「こころなきみ」(この世にいない人間)と見なしていたからだ。死んでいる人間が死ぬことはない。また無への運動を開始した人間が他人に嫉妬することもない。この世にいない人間がいまさら資本主義化した大学村の仕組みに腹を立てることもない。死ななかった理由を乱暴に、しかし正確に説明すれば、こんな風になるのだろうか。
 しかし、精神的には健康でも、二十五コマも教えると、体力は確実に消耗し、ほとんど死と接しながら教えたことも事実だ。私がいちばん多く教えていた某私立大学には、常設の医務室があり、私は授業中、立っておれなくなるとそこのベッドに走った。十分ほど寝込むと、また授業に戻ったのだが、私があまりにも頻繁に来るので、女医さんからずる休みではないかと疑われた。
 こういう状態で月刊誌や週刊誌を読むことなど思いもよらない。読む暇もなければ買う金もない。授業の準備や研究などは朝の三時から六時までにあて、大学から大学への電車での移動の時間を読書にあてた。このため、三十歳すぎから、月刊誌や週刊誌を買うという習慣が私から失われたのである。
 しかし、今から思うと、そんな習慣は失われてよかったのだ。定職についてから年に一、二度月刊誌や週刊誌を買って読むようになったのだが、読んで暗澹とした気持にならなかったことは一度もない。特に文芸雑誌は読むと書き手の傲慢さに歯がみすることが多く、読みたい作家の文章だけ読むと、さっさとゴミ箱に捨てることにしている。昔も今も、文学者というものは傲慢なのだ。このため、文芸雑誌はできるだけ読まないようにしている。丁寧に読めば良い作品にも出会えるのだろうが、それに出会うためには無数の傲慢な文章に出会わなければならない。こんな年になって、もう、そんな苦労はしたくない。
 前書きが長くなった。その年に一、二度あるかないかの行為をきょう行ったのだ。私にとって特筆すべき日だ。その雑誌では、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルピアソラについて語っていた。クレーメルピアソラについてこういう。

ピアソラシューベルトの共通項というのはハッピーな曲がないこと。彼らは喜んだりうれしがったり、そういう感情の曲は書かない。私も多分にそういう面があって子どものころからよく人生について考えるけど、自分の人生には限界があると思っている。自分の存在そのものについても考えるよ。いまは音楽を通して多くのいい友人に恵まれているけど、昔は本当の友と呼ばれる人はひとりもいなかった。おかしな子どもだろ。いつも自分は何者だろうと問いかけていたものさ」(『モーストリー・クラシック』、vol.179 April 2012 p.32)

 このクレーメルの言葉はそのまま私にもあてはまる。これでなぜ私がピアソラシューベルトが好きなのかがよく分かった。私も演奏前によくこういう。
 「私は明るい曲を聴くと暗い気持になります。嘘をつくな、と思って・・・。でも、暗い曲を聴くと、その通りだ、と思って、元気が出ます。きょうもピアソラなど暗い曲ばかり弾きます。私のギターをお聴きになって、みなさんが暗い気持ちになられるのを祈っています。人生は暗いものです。」