アホばか間抜け大学紀要

 昔、谷沢永一が「アホばか間抜け大学紀要」という文章をある雑誌に載せたことがあった。私は今もこの雑誌を大事に保存していると思う。思う、というような自信のない言い方をするのは、保存したのは確かだが、どこにあるのか分からないからだ。
 谷沢永一はこの文章で、文科系の大学教員なら誰でも知っていることを言っただけだ。谷沢永一のこの文章に反発したのは、もちろん、谷沢永一が攻撃したような、業績稼ぎのために内容空疎な論文を大量生産していた文系、とくに文学を研究している大学教員、それに、10年間ほど何も論文を書いていない文系の大学教員たちだった。
 私は当時さまざまな大学を(関西大学も含めて)非常勤講師として走り回っていたので、その文章の主である谷沢に対する怨嗟の言葉をあちこちで耳にすることになった。私見にすぎないが、今も大学の状況は変わっていないので、この文章を文庫本にしてほしいと思う。もっとも、谷沢永一は無能教員の名前を挙げて批判しているので、やはり無理か。
 話は変わるが、谷沢永一関西大学を定年前に辞めた。彼の授業に出てくる学生の数が二、三名になったので、「きみらは、そんなに私の授業に来るのがいやなのか」という捨て台詞を吐いて辞めたそうだ。
 私にも谷沢永一の気持はよく分かる。私も同じような経験をしてきた。今の学生にとっては文学などどうでもいいことだろう。と言うより、何の人生経験もない学生に文学作品を読めと言っても、それは苦痛以外の何ものでもないだろう。昔は娯楽が少なかったので、その無茶が通ったけれど、今は通らない。漫画とかテレビとかインターネットとか、いくらでも文学に代わる娯楽がある。
 しかし、活字を読まないと、条件反射的・局所的な思考しかできなくなる。ものごとを全体的・複眼的にとらえて、じっくり考えるという思考習慣が身につかない。最近のインターネット上での些末な議論などを見ていると、それを痛感する。いや、インターネット上だけではない。国会でも同じだ。細部では正しいように見えるが、全体的に見ると間違っているというような愚劣な議論が大半を占める。これは活字文化の衰退と関係があると思う。だから、少々無茶であってもいいから、学生に文学作品を読ませるべきだと思う。思考力を身につけさせるには文学作品の古典を読ませるのがいちばんいいと思う。こんなことを言うと文学教師の夜郎自大と笑われそうだが。