光市母子殺人事件

 先日、光市母子殺人事件の被告人、大月(旧姓・福田)孝行に死刑が言い渡された。裁判官たちは正気なのだろうか。無責任な世論に迎合しただけではないのか。軽率な判決だと思う。犯行当時、大月孝行は18歳だった。幼い頃から父親は母親と孝行に暴力をふるいつづけ、孝行が中学一年のとき、父親の暴力に耐えかねた母親が自殺する。この事実だけで、たとえば私には大月孝行に死刑を宣告することが不可能になる。 孝行が味わったような不幸に耐え抜き、正気を保ったまま、怒りを抑えて生きることができるような人がどれほどいるというのか。私が大月孝行のような立場に置かれたら、もっと冷酷な犯罪を犯したかもしれない。
 大月孝行が被害者となった母子に激しいあこがれと嫉妬を覚えながら犯行に及んだことは明らかだろう。
 この大月孝行の犯罪について考えるとき、私はいつもある友人を思い出す。その友人の名前を仮にAとしよう。Aは子供の頃、仲のよい母と子を見ると、その場で、即座に、殺したい、と思ったということだ。長じてのちも、友人から親子で仲良く写った写真をはめこんだ年賀状が来ると、すぐそれを破り捨て、その友人に激しい殺意をおぼえたということだ。それは嫉妬に他ならないのだが、私にはAの気持がよく分かる。大月孝行ほどではないけれど、私とてAと似た境遇で育ったのだ。孝行もAも私の分身なのである。というより、満月のように欠けたところのない親子関係のうちに育った者などどこにもいないだろうから、誰もがいくぶんかは孝行とAの嫉妬と怒りを共有することができる。大月孝行とAはわれわれの分身なのだ。だから、われわれの誰もが大月孝行の犯行をいくぶんかは理解できるはずなのだ。大月孝行を死刑にすることによって、われわれは自分の分身を失い、ますます薄っぺらな人間になる。薄っぺらな方がいい、という人にとっては良い時代だ。