オーソレミオ

某日、かみさんを病院に送っていくとき、前の幌付きのトラックの幌に雪が積もっていた。渋滞していたので、その後ろをずっと走っていると、雪がフロントガラスにかかって前が見えなくなった。ワイパーをかけた。奈良ナンバーのトラックだったが、奈良に大雪でも降ったのだろうか。雪をくっつけて走っている車が多かった。車の中でパバロッティの「オーソレミオ」を流しながら、いっしょに歌っていたら、かみさんが「お隣の犬みたい」と言った。昔、住んでいた家の隣家のワン公が、いつもお隣のテレビの音楽に合わせて「♪うぉぉぉーん」と鳴いていたことを言ったのである。ずいぶんひどいことを言うもんだと笑った。カミさんを送り届けたあと、晴天になりそうだったので、たまっていた洗濯物の洗濯をしたあと、外に干すことができた。パンツは外に干すにかぎる。

アルマーニの制服

 これは人のワルクチである。気分が悪いが、言わなければなるまい。
 銀座の泰明小学校の校長が生徒にアルマーニの制服を四月から着せるそうだ。「ヴィジュアル・アイデンティティ」とかいうわけのわからんものを生徒に身につけさせたいということだ。要するに、わたしたちはお前たち貧乏人とは違うのである。したがって、服装も高級なものを身につけるのである。そういう意識を生徒に持たせたいとわしは願う、と、いうことだろう。まさに自尊心(虚栄心)の病であり、生徒に他人より一枚上を行かせようという模倣の欲望を掻き立てる所業である。教育者としては失格だ。辞職に値する振る舞いだろう。この校長は亀山郁夫の狂ったドストエフスキー論でも読んだのか。それとも講演を聴いたのか。
 私の記憶によれば、亀山はエッセイで自分がアルマーニを着ているのを自慢していた(『カラマーゾフの兄弟』の翻訳が売れたからね)。だから、自分の翻訳は「アルマーニを羽織ったドストエフスキー」だと言ったのだろう。アルマーニが買えるほどもうかった『カラマーゾフの兄弟』の翻訳という意味だろう。私のドストエフスキーの翻訳はそんじょそこらの貧乏人の訳したドストエフスキーとは違うのね、と言いたいのだろう。ここまで狂うことができるものか。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost128.htm

西部邁の死

 西部邁が亡くなった。西部邁は自尊心の病から脱け出したのだろうか。どうもそんな風には思われない。最後まで気にくわないやつを罵っていた。若い頃から西部を尊敬していたので、きわめて残念なのである。

イントレランス

ある人が思想的に右、あるいは左、あるいは中道であっても、それはその人の思想なので、私が批判することではありません。しかし、その人が自分の自尊心の病に気づいていないとき、そういう思想は、きわめて危険なものになると思います。なぜなら、自らの自尊心の病に気づいていない人は、異なった思想の持ち主に対して、不寛容になるからです。そういう人が全体主義社会を支えたり、魔女狩りをしたり、赤狩りをしたりするのです。そういう人は、たとえば、「イントレランス」という映画を見ていただきたい。

ある質問について

昨日の講座のあと、自尊心の病に憑かれている人は、何故、模倣の欲望に憑かれるのですか、という質問を受けました。それについては昨日配布した「解答と回答(16)」のp.13の下から8行目以降、さらにp.15の11行目以降(ペテロはなぜ泣いたのか・・・)で説明しました。要するに、虚栄心の強い人は、「自分はこの程度の人間ではないのである」と思い、自分の上を行っている人、あるいは(日本やロシアの人であれば)欧米の文化を模倣するのです。そして、模倣するが、模倣できないので、つまづいてひっくり返る。この説明でだいたい分かると思うのですが、あまりにも虚栄心の強い人は、こういう説明を受け付けないかもしれない。しかし、そういう人には、「あなたもいつかは自分の虚栄心に気づくかもしれない」、と言うにとどめます。

 先日、多田智満子の夢を見た。どんな夢だったか、忘れた。にこにこ笑いながら、何か喋っていた。ところが、その朝、かみさんが「昨夜、3時頃、変な夢を見た」という。「どんな夢でしたか」と訊いても、じっと考えているだけだ。「変な夢」と言うだけだ。念のため言うが、多田さんをわたしは尊敬していただけなのである。昔、同人誌の連中とお遊びで連歌をしたとき、わたしは多田さんの言葉を紡ぎ出す才能に驚くばかりだった。詩人とはこういうものだと思った。と、かみさんに言おうと思ったが、それも変なことなので何も言わなかった。わたしはまもなくあの世に行くのだろうか。