沢木耕太郎

 朝日新聞に掲載されている沢木耕太郎の連載小説「春に散る」。ボクシングの好きな私は切り抜いて愛読している。その330回目。
 翔吾という若者が主人公の広岡に、中国から帰化した両親の息子と対戦したときのことを話す。汚いボクシングだった。相手は人生を賭けて戦っているのだ。ほんとうにしつこい、汚いボクシングだった。クリンチをするたびに後頭部にパンチを入れてくる。翔吾は二、三ポイントで負けだと思った。ところが、判定の結果、自分が勝っていた。人生を賭けていない自分が勝ってしまった。おれはそのことが恥ずかしい、そう、翔吾がいう。

 黙って聞いていた広岡は、内心激しく動揺していた。翔吾という若者は、かつての自分と正反対の立場に置かれたらしい。自分は、日本タイトルマッチで、勝っているはずの試合に負けを宣告されてしまった。しかし、この翔吾という若者は、負けているはずなのに勝ってしまったという。そして、そのことで苦しんでいる。
 自分は、自分から勝ちを奪い取った相手のことなどまったく考えたことはなかった。相手である彼が判定を下したわけではないのに、どこかで卑怯(ひきょう)な奴だと唾棄(だき)しているようなところがあった。
 だが、もしかしたら、彼もまたこの若者のように悩んでいたのかもしれない。負けていたのに勝ってしまった、と。
 自分との試合に勝ったあと、日本チャンピオンの彼は予定どおり世界タイトルに挑戦したが、早い回のノックアウトで無残に敗れてしまった。それからは、雪崩(なだ)れるように下降していった。

 これを読んでいて、一昨日の山中とソリスの試合を思い出した。ベネズエラから来たソリスは明らかに人生を賭けていた。クリンチをくり返す汚いボクシングだった。一方の山中ももちろん人生を賭けていただろうが、ソリスほどの必死さは感じられなかった。山中は正攻法のスマートなボクシングで、要所要所で、ソリスに鮮やかなパンチを入れた。しかし、山中は続けて二回、顔面にパンチを食らいダウンする。そのあと、山中はソリスをダウンさせるが、それは明らかにレフリーの間違いだった。ソリスはダウンしていなかった。山中が左腕でねじふせただけだ。試合前半部のソリスのダウンもダウンではなかった。これはテレビの画面からも分かった。
 山中は自分が負けたと思っただろう。途中で知らされるレフリーのポイントを私は受け入れることができなかった。山中もそうだったろう。山中は結局、大差で勝った。裏で何があったのか知らないが、不明朗な判定だ。私は良くても引き分けだと思った。この勝ちは山中にとって不愉快なものだろう。
 負けるのは不愉快だが、勝てばいいというものではない。勝ち方によって、その後の人生が決まる。しかし、勝ち方を私たちは自分では選べない。そして、その後の自分の運命を選ぶこともできない。
 これは国家の運命にも言えるだろう。最近のアメリカとイラク、ロシアとウクライナなどにも言える。トランプ旋風に見られるように、アメリカが今のように狂ってしまったのはイラクに不公平な勝ち方をしたからだ。この勝ち方が今のアメリカを内部から蝕んでいるのだ。ロシアはどうだろうか。
 自分が正しいと確信できないとき、私たちは不安のあまり狂気へと踏み出す。だから、勝つという目的が大事なのではなく、そのプロセスが大事なのだ。正しいプロセスを踏んでいるかぎり、負けたとしても狂うことはない。そして、狂わないということが、人間にとっても、国家にとっても、いちばん大事なことなのだ。