歴史主義

 朝日新聞に再掲載されている漱石の『それから』もそろそろ終わりにさしかかり、わたしはすっかり明治の人間になったつもりで、毎日それを読んでいたのだが、先日、その百六回目を読み、自分が明治の人間ではないことを改めて感じせてくれる一節に出会った。
 『それから』を読むと、わたしはいつも村上春樹の『ノルウェーの森』の直子を中心とした三角関係を連想してしまうのだが、その直子の位置にいるのが三千代だ。その三千代をめぐって代助と平岡が争う。そして、その争いの中で代助が三千代の夫である平岡にこういう。
 「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。」
 この箇所をわたしはこれまで何の気なしに読みとばしてきたのだが、ここに朝日新聞の編集者は次のような注釈を付けている。

 【三千代さんは公然君の所有だ】妻は夫に隷属するという当時の常識の表現。旧民法でも、妻を財産管理能力がなく、後見人を必要とする「準禁治産者」に相当する人間として位置づけている。

 この注釈にわたしは非常に驚き、これまで左寄りのエリート臭ふんぷんたる新聞だと思っていた朝日を少し見直す気になった。
 ここはこの注釈者の言う通りで、何気なく読み飛ばしてはいけないところだ。なぜなら、読み飛ばしていると、わたしのように、少し大げさな言い方をすれば、三千代の気持をほとんど理解しないまま『それから』を読んでしまうことになる。
 また、代助や平岡には三千代が社会的には「準禁治産者」、つまり半人前だという意識を持って生きているということが分かっていた。ということになれば、件の箇所を読み飛ばしていたわたしは、そのような代助や平岡の気持もほとんど分からないまま『それから』を読んでいたことになる。
 要するに、わたしは『それから』をなんにも分かっていなかったということになる。こう言うと、かなり誇張した言い方になるが、ことの本質は突いているはずだ。つまり、三千代は代助や平岡に、あるいはその他の男に、一人前の人間として扱われていない。そして、そんな状態のまま、ある男から別の男へと犬猫のように手渡されようとしているのだ。ここに三千代の悲しみがある。また、その三千代の悲しさが分かる代助の苦悩がある。『それから』はこのような悲劇を描いているのだから、件の箇所を読み飛ばしていた私のようなうかつ者は、『それから』がなんにも分かっていなかったことになる。
 しかし、女性を犬猫のように見て、彼女たちにそういう差別意識を持って向かい合うというのはどういう感じなのだろう。また、そういう差別されているという意識を持って生きている女性はどんな気持で生きているのだろう。こういう疑問を抱くと、わたしはめまいのようなものを覚える。そんなものは自分には分かりっこないのだ。それは代助や三千代の生きていた時代に生きている人間にしか分からないことなのだと思う。これが「常識」であり「共通感覚」なのだ。その過ぎ去った感覚が分かると思うのが間違いなのだ。しかし、あまりも傲慢だと、それが間違いだということにさえ気づかない。
 こういう傲慢さのことを小林秀雄は「歴史主義」と名づけた。彼のいう歴史主義というのは、要するに、現在の「常識」あるいは「共通感覚」によって、昔の「常識」あるいは「共通感覚」を理解しようとするということだ。今の場合で言えば、『それから』の三千代を中心とした三角関係を、『ノルウェーの森』の直子を中心とした三角関係と同質のものとして見るということだ。この二つの三角関係はジラールのいう模倣の欲望が作りだす三角関係であるという点では同じだが、質的には、まったく異なるものだ。そして、文学作品を読むときには、この質的なものにわたしたちは想像力を働かせないと、その作品を十分に理解することができない。
 しかし、くりかえすが、それは不可能だ。わたしたちは時間を戻すことはできない。戻した時間の中で生きることはできない。時間はつねに前に進み、わたしたちはその時間の中で生きることしかできない。だから、過ぎ去った時間の中で生きていた人々が共有していた「共通感覚」を知ることはできない。
 過去に書かれた文学作品を読むとき、私たちにできることは謙虚になることだけだ。これは歴史的事実に向き合うときと同じだ。
 わたしたちは、その歴史的事実の中で生きていた人々が持っていた共通感覚とは異なった共通感覚によって、その歴史的事実に向き合っている。わたしたちにできることは、その歴史的事実に謙虚に向き合うことだけだ。それを現在の感覚によって理解しようとしたり、謎解きをしようとしたり、あるいは断罪しようとしたりするのは、そうしたい気持は分かるが、決してしてはならないことなのだ。