モッブ

 昔、中野孝次柄谷行人がある文芸雑誌で対談し、大喧嘩になったことがあった。と言うより、この二人は文字通り水と油なので、大喧嘩になるのが分かっているのに、編集者が面白がって対談をさせたという風に私には思われた。
 私はこの二人が好きではなかった。
 中野の書いたものは、そのお涙ちょうだいの自伝的小説に少し感心したぐらいで、エッセイなどはわざとらしくて読み続けることができなかった。私のいう「わざとらしい」というのは、演技をしているということを意味する。文章を書くときは誰もが多少とも演技をしなければ書けないものだが、中野の場合は、その演技が読者、いや、少なくとも私には透けて見えた。このため、読んでいる方が恥ずかしくなる。作者は演技が見えないように書かなければいけない。私の独断にすぎないが、実生活でも中野の演技は他人には分かったのだろうと思う。中野は愛すべき人物には違いなかろうが、作家としては落第だと思った。
 一方の柄谷は中野以上にわざとらしく、そのエッセイは関西の言葉でいう「ええかっこしい」の文章で、わざと難解な文章を書いた。中野がその対談で柄谷に「人が読んで分かる文章を書け!」と罵声を浴びせたが、まさにその通りと私も思った。柄谷の文章は着想は面白いが、読み進めてゆくと、文脈が分からなくなり、何が言いたいのかさっぱり分からなくなる。柄谷のいちばん良くないところは、自分でもよく理解できない思想家などをあたかも分かっているかのように引用しながら、えらそうに断定するところだ。ここでまともな読者は退散する。
 若い頃私は素直だったので、柄谷のそういう文章を読んで「たいしたもんだなー」などと感心していたのだが、少しずつ柄谷の文章がインチキだと分かってきて、読むのをやめた。柄谷はこういうこけおどしの文章を書く方法を誰から習ったのか。計算高い編集者などから面白いとおだてられているうち、しだいに、そんな文章を書くようになったのか。柄谷の格好ばかり気にした、内容空疎で非論理的な文章は、ラカンクリステヴァの文章に似ている。
 柄谷がそういう文章を勝手に書いているのは構わないのだが、困るのは、最近、柄谷を模倣する者が増えたということだ。彼らは文脈を無視しながら、平気で非論理的な文章を書く。編集者も売れればいいと思っているのか、その非論理的な文章を直そうともしない。柄谷亜流の人物が書いたものを読む読者が非論理的で文脈の読めない者になってゆくのは明らかだろう。先に「文脈が読めない人」でも書いたことだが、新聞記者やインターネットの掲示板などで文脈の読めない者が増えているように思う。これは柄谷やラカンなどの間接的な影響もあるのではないのか。間接的な影響というものは直接的なそれより影響が大きい。
 ところで、そういう文脈の読めない人が増えていること、それじたいに問題はない。いや、問題はあるのだが、それだけなら、その問題が社会全体に広がることはない。文脈が読めない人は現実を理解できないので、生きてゆくのに苦労するだけだ。問題は、文脈の読めない、現実の分からない人は、必ずハナ・アーレント(『全体主義の起源』)のいう「モッブ(群衆)」になるということだ。モッブとは誰か。それは社会のどこにも自分の居場所を見つけることができない人のことだ。居場所のない彼らは自分が置かれた現実を理解できないため(現実とは居場所のことだ)、自分の欲望を満たすため、あらゆる非合理な、あるいは非論理的な手段に訴える。
 要するに、文脈が読めないと現実が分からなくなり、自分の居るべき場所が分からなくなる。そして、居場所がないので、ますます現実が分からなくなり、ますます文脈が読めなくなり、ついには、やけのやんぱちになり、むちゃくちゃを始める。
 アーレントが言うように、モッブこそがヒットラー全体主義を支えたのだ。私は私たちの社会がそういう全体主義社会に近づいているいるような気がしてならない。いや、もうすでにそうなっているのかもしれない。
 (2015/05/20:一部訂正しました。)