中沢新一と亀山郁夫(1)

 中沢新一亀山郁夫はよく似ている。そう思ったのは、亀山郁夫の『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房、2005)を読んだときだ。亀山のロシア革命を嘲弄した『熱狂とユーフォリア』を読んだとき、すでにそう思ったが、『『悪霊』神になりたかった男』を読んで、それが確信に変わった。要するに、『『悪霊』神になりたかった男』はテロなのである。何に対するテロか。それがドストエフスキーの作品の価値を無意味にしようとするテロであることは明らかだが、それ以上に、人類そのものに対するテロだ。
 アイヒマン裁判で、ユダヤ人を機械的に虐殺したアイヒマンは人類に対して罪を犯したとして死刑宣告を受けた。このアイヒマンと同様、亀山もまた『『悪霊』神になりたかった男』で、人類に対して罪を犯しているのだ。
 亀山は私たちにこう言いたいのだろう。マトリョーシャが可哀想?バカバカしい、マトリョーシャだってスタヴローギンと同じ穴の狢(むじな)ではないか。彼女もまた母親からぶたれながら、スタヴローギンの視線を感じ、被虐の喜びに酔いしれているではないか。二人は母親の暴力を利用して性的快楽をむさぼっているのだ、と。
 私が亀山のこのような読みに驚くのは、ここにはマトリョーシャの憤りと悔しさに対する共感がまったく見られないということだ。ここにあるのは、隣人愛というようなモラルを破壊してやろうという悪意だけだ。
 言うまでもないことだが、マトリョーシャは犯してもいない盗みを犯したという疑いをかけられ、母親から折檻されているだけだ。だから、当然のことだが、『悪霊』のテキストには、マトリョーシャが性的な喜びを覚えて泣いているとは書かれていない。彼女は悔しくて泣いているだけだ。しかし、亀山のように読者がマトリョーシャの憤りと悔しさに共感できないなら、彼女が性的な喜びを覚えて泣いていると解釈することも可能になる。
 私は亀山のこの『悪霊』論を読んだとき、これは中沢のゴジラ論に似ていると思った。中沢もまた、他人の苦しみに共感できない。それは彼のゴジラ論を読めば明らかだ。そのゴジラ論とは、文芸誌『新潮』(1998年9月号)に掲載された中沢の「GODZILLAゴジラ」という文章のことなのだが、私はその『新潮』を今は所有していない。だから、その文章については、すでに島田裕巳が『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房、2007)で論じているので、島田の文章を参照しながら述べてゆくことにする。
 私は中沢のそのゴジラ論を読んで、島田と同じように何とも言えないおぞましさを感じた。また、それと同じ感覚を亀山のマトリョーシャ論を読んだとき味わった。この私の亀山に対する批判については「[file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]」を見てほしい。
 島田によれば、中沢はゴジラに関心があり、二回、日本のゴジラ映画について書いているということだ。私が読んだ「GODZILLAゴジラ」という文章で中沢は、ハリウッド版のゴジラ映画(『GODZILLA』)が公開されたのを機会に、そのハリウッド版とオリジナルの日本のゴジラ映画を比較している。その中沢の文章について島田はこういう。

 日本のゴジラは、ヘリコプターやロケット砲を、いかにもうるさそうにぶっきらぼうな暴力でたたきつぶしていく。中沢は、その速度の遅さと敵の動きにあわせようとはしない超越的な感じが、ゴジラのまわりに不思議な「デタッチメント(離脱)」の雰囲気を醸しだしていることを指摘する。東京を破壊しているときにも、ゴジラはどこか夢見心地なところがあり、現実の変化に必ずしも敏感に反応することなく、悠々たる現実離脱の態度を貫きながら、日本人の世界にくり返し出現してきたというのだ。(『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』、p.98)

 中沢がゴジラの「どこか夢見心地なところ」に共感しているのは明らかだろう。さらに島田はこう言葉を継ぐ。

 中沢は、私たちが、ゴジラが圧倒的な力で都市を破壊していくのを、カタルシスに似た感情とともに見つめてきたと言う。そこには、恐怖とも憎しみともちがう、突き抜けたような肯定の感情が混じっている。ゴジラが破壊するのは、私たちの心の上に堆積していく有の沈殿物であり、私たちはくり返し死んで、ふたたび肯定する力とともに蘇るために、ゴジラの出現を迎えてきたというのだ。
(中略)
 もちろんここでの中沢は、映画のなかのゴジラのことを問題にしているわけだが、ゴジラによる東京の街の徹底的な破壊と、大量に生成されたサリンを散布することによって東京の街に壊滅的な打撃を与えることとは重なってくる。中沢は、ゴジラの破壊力が、善と悪を超越し、「根源的な肯定する力」であるととらえている。この部分は、中沢が大泉との対談で、善と悪を超えた観点から殺人を宗教的な真理としてとらえる思想の可能性を論じているところと重なってくる。
 しかも中沢は、ゴジラによる徹底的な破壊が、日本人のあいだにカタルシスをもたらすものであることを指摘している。都市は、あるいは現代の社会は、人間のこころを抑圧する。ゴジラによる破壊は、そうした抑圧から人々を解き放つ役割を果たすというのだ。
 この議論に、中沢が高橋英利に言ったとされる、サリン事件の犠牲者が一万人や二万人だったらどうなるのかという問い掛けのことばを重ね合わせてみるならば、中沢は、大規模な無差別殺人が行われたなら、それは、私たちにカタルシスをもたらす可能性があることを示唆しているように見えてくるのである。(『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』、pp.99-100)

 島田によれば、「中沢は、私たちが、ゴジラが圧倒的な力で都市を破壊していくのを、カタルシスに似た感情とともに見つめてきたと言う」。中沢はこのカタルシスを、『アースダイバー』では「スカッとした気分」という言葉に言いかえている。カタルシスにせよスカッとした気分にせよ、同じことだが、ゴジラの破壊活動を見て、そんな気分になるものだろうか。子供なら、そんな気分になるかもしれない。しかし、大人ならどうか。島田はそれはむつかしいという。私も同じだ。ゴジラが街を破壊しているのを見て、「スカッとした気分」になることはない。これは空想的な出来事だと思うだけだ。だから、私は中沢のように「スカッとした気分」になる大人に対して激しい違和感を覚える。このような違和感について島田はこういう。

 ここで確認しておかなければならないのは、ゴジラによる破壊に爽快な思いをする人間が立っている場についてである。その人間は、ゴジラが破壊していく街に住んでいる者ではない。破壊によって命を落としたり、生活の基盤を失ってしまうような人間ではない。そうではなく、街が破壊されていく様子を遠くから、言ってしまえばスクリーン越しに眺めている観客であり、見物人である。本人は、その破壊によっていささかも傷つくことはない。安全な立場にいるからこそ、ゴジラの破壊を歓迎し、それがくり返されることに期待を寄せられるのである。言うまでもないが、中沢が高橋に、サリン事件の犠牲者がもっと多かったらと言ったとき、彼自身がそのなかに含まれるとはまったく想定されていない。(『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』、pp.102-103)

 要するに、他人事(ひとごと)なのだ。他人事なのでスカッとするのだ。ここに見られるのは、恐ろしいばかりの、共感する能力の欠如だ。こういう人間にかぎって、自分が暴力の対象になりそうになると、他人を犠牲にして自分だけ助かろうとする。地下鉄サリン事件が起きたときの中沢のふるまいはそういうものだった。中沢は自分が麻原の共犯者でないことを証明するため、正視できないほどの醜態をさらした。これについては島田が『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』などで詳しく述べている。中沢が亀山と同様の死産児であることは明らかだ。(続く)