団塊の世代と戦争後遺症

 私はこれまで何回か、面と向かって、
 「どうして団塊の世代の人にはバカが多いんでしょうね?」
 という意味の言葉を投げかけられたことがある。そう言うのは、きまって、私より一回りぐらい若い世代の男性だ。きっと団塊の世代にひどい目にあったのだろう。だから、そういう風に団塊の世代をののしるのだ。
 しかし、いずれにせよ、私が団塊の世代に属することをその発言者は知っているはずなので、その発言は、私に対する悪罵になる。私は団塊第一号とも言うべき昭和22年生まれだ。
 私にそんなことをいう人は私を甘く見ているので、つまり、私が怒らない人間であると知っているので、そう言ったのだろう。たしかに、私はどんなことを言われても怒らない。三十歳をすぎたある時から、つまり、離人症から癒えたときからそうなった。ののしりたいのなら、ののしりたまえ、私はなんともない。諸君、どんどん、ののしりたまえ、そう思うようになった。ただ、困るのは、ののしられたあと、しばらくすると、深い悲しみに襲われることだ。その悲しみもしばらくすると去る。そしてまたののしられる。そして・・・というくり返しだ。こんな風にして私は死に近づいているのだろう。
 しかし、相手の悪罵があまりにもしつこいと、社交辞令上、ときには、怒る真似をすることもある。たとえば、
 「どうして、そう思われるんでしょうか?」
 と、鋭い口調でいう。すると、相手は怒らないと思っていた私が怒ったので驚き、
 「いや、なにも・・・」と口ごもる。私は、そういうとき、
 「団塊の世代というのは、戦争被害者なんですね」という。なぜならば、と話を続けようとすると、相手はもう自分の悪罵のことは忘れ、別の話題に移っているので、その話を続けることができない。きょうは、その続きをここで書こうと思う。
 団塊の世代に私のようなバカが多いのは、その父親が戦争経験者であるからだ。とくに、私のように父親が15歳で軍隊に志願し、そのあと、いろいろ苦難の道をたどり、宝くじに当たるようにして命を落とさず、30歳頃、南の島で捕虜になって、ようやく日本の軍隊から解放され、復員してきたような場合――父親の性格は戦争ですさみ、異常な状態になっている。したがって、自然の流れとして、その子供は戦争の二次被害者になる。要するに、子供は狂った父親と同居することになり、その狂気に感染する。このため、私も含めて、私の同世代の人間には変なやつが多い。しかし、団塊の世代でも変ではないやつもいるので、そういうのに、「きみの父親は戦争のときどうしていた?」と聞くと、「内地にいて事務をやっていた」とかいう。なるほど、それでは戦争の傷も浅いはずだ、二次被害も少ないはずだと思う。
 話は変わるが、いや変わらないのだが、川端康成に「山の音」という小説がある。読むと気持が落ち着くので私は川端の悲しい小説が好きなのだが、中でも、「山の音」は若いころから何度も読み返している。
 どうしてこんなにこの小説が好きなのか、自分でもよく分からなかった。しかし、あるとき、主人公の息子がいわゆる「復員ぼけ」、今でいう「PTSD」、つまり、戦争のトラウマのため、精神に変調をきたしている人間だから、ということが分かった。そして、私の好きな作家の多くがそういう「復員ぼけ」の状態で生きている作家だということが分かってきた。たとえば、島尾敏雄の「死の棘」などを読むと、私はそこに戦争の深い影を感じる。こういう島尾のような父親をもつと子供が変になるのは避けられない。最近読んだ島尾伸三の『小高へ――父 島尾敏雄への旅』(島尾伸三河出書房新社、2008)という本でもそのことが述べられている。
 先に『硝子障子のシルエット』という文章で島尾敏雄の娘の摩耶(マヤ)さんが精神に障害をもっていることについて書いたが、摩耶さんの兄に当たる島尾伸三のその本を読むと、なぜ摩耶さんがそんな風になったのかもよく分かる。摩耶さんはいつも喧嘩ばかりしている両親を恐れていたのだ。島尾伸三はそれについてこういう。

 マヤはどこへ行っても両親の後を追いかけません。だから、私が、おしっこやうんちの世話をしなければならないのです。電車に乗っていても、「おにいちゃん、うんち」って、言うんだもん。
 ホームの端から眺める線路の向こうは、地上の爆弾が落ちて来て爆破されたり、焼けたりしている焼け野原は、大火傷の痕を誇示する敗残兵のただれた皮膚みたいになっていて、でも、空は青く、風も清楚で、マヤはそんなところにしゃがんで、隣の駅を彼方に眺めながら、おしっこやうんちをしているのでした。
 マヤが小さかったころの髪の毛は、薄い茶色がかった細い毛で、少しの風にもそよそよとそよいでいました。

 そして、摩耶さんは亡くなる。

 妹、マヤの死は、十年経っても、私を悲しませるのに充分です。
 どうして彼女を、狂った母の家から救い出せなかったのか・・・とです。
 闇のなかに今も輝きつづける霊であることを私は知っています。暗い気持ちになっている時には、特にそれを思い知らされるからです。
 一度は救い出すことに成功したのですが、三年経ったころに、また母に引き戻されてしまい、マヤはそれから八年もしないうちに、骨だけにまで痩せ細って、死んでしまいました。
「ちがう、ちがう」
 というのは、マヤが私に遺したサインでした。それが何を意味するのか、はっきりしませんが、照らされた考えに至らない私を責めているのか、母の医師や私への対応を指しているのか、ついにわからずじまいです。
 自分の不甲斐のなさと、粗雑な扱いを受けた魂を思うと、心に水が溜まるのです。

 両親の関係が壊れたのは、夫である敏雄が浮気をしたからだ。このため、妻は精神に異常をきたす。それまで神と仰いでいた夫が浮気をしたのだ。異常にならない方が不思議だろう。伸三は神戸外大の教師をしていた頃の父親についてこう書く。

 おかあさんは奄美大島の革命分子を応援しているのに、彼はまるで興味が無くて、神戸での革命家たちの集会のある日に、美しい人の所へ遊びに行って帰って来ないので、彼女が代わりに出席したと、まだもめていました。その革命家たちをチンピラだとおとうさんが言ったので、彼女はますます怒っていました。
 でも、小岩(東京都江戸川区:萩原)に来てからは、もめ事の原因はもっと増えているみたいで、私はとっくに両親を嫌いになっていました。マヤはもっと二人のおとなを恐れていました。

 伸三と摩耶の母親はもとは陽気な性格だった。それが夫の浮気をさかいにして変わる。

 このころのおかあさんは陽気なものが大好きで、明るい洋画と、トニー谷や兵隊生活を笑いものにした柳家金語楼というコメディアンの主演する映画や、ラジオの落語や漫才を聞くのが大好きでした。おとうさんがお笑い芸人を好きになった一九六〇年頃には、おかあさんは冗談が分からない人になっていました。

 私はこういう文章を読むと、「復員ぼけ」の島尾敏雄や「山の音」の主人公の息子、さらに、私たち団塊の世代の父親のことを思い浮かべる。人が狂ったり荒れたりするのには、それなりの理由があるのだ。それはよく分かるのだが、まわりの人間もたまらないのである。