中沢新一と亀山郁夫(2)

 「中沢新一と亀山郁夫(1)」で私は「中沢は自分が麻原の共犯者でないことを証明するため、正視できないほどの醜態をさらした」と書いた。それはたとえば、有田芳生が以前、自分のブログで書いていた次のような事態を指している。

地下鉄サリン事件が起きた直後、中沢さんは東京地検に自ら駆けつけます。捜査に協力したいと申し出たのです。その動機はどこにあったのでしょうか。事件当日に謀略的な犯行声明(結局は蒔かれなかった)を作成したという麻原彰晃側近との親交など、中沢さんがご自身で口を封じた事実も数々あるはずです。金平さんが「諸君」の発言を読んで以来、中沢さんの著作を読まなくなったというのも、そこに学者としての誠実さを見出せなかったからなのでしょう。(「有田芳生の「情報の裏を読む」」:2007/4/10:http://www.the-journal.jp/contents/arita/2007/04/

 あるいは、

2007/03/25
地下鉄サリン事件中沢新一(2)

 3月24日(土)島田裕巳さんの中沢新一さん批判、いやいや地下鉄サリン事件との関わりを分析した原稿を熟読していた。雑然とした資料のなかから「週刊朝日」の「マリコの言わせてゴメン! ゲスト 中沢新一」を取り出した。内容がひどすぎてボツになった経緯がある。おそらく編集部にも残っていないだろう。フリーになってさまざまなテーマを書いてきた。それらの資料はほとんど散逸しているけれど、この対談だけはすぐ出せるようになっている。それだけ「何だこれは」と思ったからだろう。たとえば中沢発言から

 これもカットだけど、飯星景子統一教会を脱会していないですからね。(中略)二木(注、日刊現代記者)が資料を島田(裕巳)に渡して「幸福の科学をたたけ」と言って原稿を書かせたんですよ。それで島田は書いちゃった。(中略)これは島田が悪いんじゃないですよ。二木が悪いんです。(中略)あの人、学生のとき、爆弾製造犯ですからね。

 わたしへの批判もふくめてこんな対談が続いていく。そして事件についてもこう語っている。
 
 ぼくは確信犯ですから。坂本弁護士事件というのは、オウム真理教の犯罪じゃないといまでも思っています。(中略)これは絶対に載せないでください。真犯人は別にいます

 そこで林真理子さんは「エッ、ホント!?」と驚き、中沢さんは「午後7時に坂本弁護士の自宅に3人の女性が入っています。これ知っていますか?」と続ける。「これも載せられないけど、石原慎太郎の四男がオウム真理教の幹部だって知ってます?」と語る。さらに「これは絶対に載せないでください。実行犯の大半が、北朝鮮被差別部落出身ですね」という。林の「上祐もそうだとか」という問いに「そうです。林(郁夫)さんもそうだし。石井久子もそうだし」。

 対談はこんな調子で行われている。中沢さんは松本サリン事件についてもこう語っていた。

 これも載せないでほしいんだけど、「松本サリン事件」が起ったあと、公安の一部が、ぼくが黒幕だと思ったみたいね。あの人たちって、思想的な背後関係をさぐるから。

 こうして幻の対談を引用していけばきりがない。島田さんはこの対談を知らないが、中沢さんとオウム真理教との関係を分析すれば、ここで語られたような事件の思想的背景が中沢新一さんにあったことを実証的に明らかにした。この対談でも中沢さんはたとえばこう語っていた。

 麻原さんは、戦後の日本が五十年作ってきた歴史を、全否定しようとしているんだと思うんです。

 島田さんが中沢さんを批判するのは、このような事件を肯定するかのような発言の根拠に対してである。「はじめに」ではこう書いている。

 彼がオウム真理教が行ったサリン事件について、それを否定していないばかりか、むしろそれを正当化しているのではないかという印象を受ける。さらに彼は、サリン事件の規模がより大きなものになり、犠牲者の数が大幅に増えることを期待するかのような発言さえしている。

 なぜそのような発言をしているのか。島田さんの新刊ではそれが明らかにされていく。この仕事をするとき、島田さんは中沢さんの著作や発言をすべて読んだという。夕方の池袋。「おもろ」で常連と泡盛を飲む。演劇評論家の江森盛夫さんに島田本のことを伝える。中沢さんの仕事を評価してきた江森さんが「それ本当なの?読まなくちゃ」と驚いていた。『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房)はきっと話題となることだろう。(「有田芳生の『酔醒漫録』」:http://blog.goo.ne.jp/arita0327/e/0e6fd118b983432b36e0636f3f55a183

 以上でだいたい私のいう中沢の「醜態」の意味が読者に了解されると思う。
 こういう自分が罪を逃れることができるのなら、嘘八百を並べても平気な人間、これが中沢なのであり、これがドストエフスキーのいう「死産児」なのだ。『地下室の手記』の主人公が言うように、自分が紅茶一杯飲むことさえできれば、世界がどうなろうとかまわない、そう思うことができる人間をドストエフスキーは死産児と呼んだ。生まれたときから死んでいる、人間としての血が通っていない冷酷無比の人間のことだ。この中沢と亀山が同じ死産児であることは明らかだろう。(続く)