利益相反

 最近よくマスコミなどで使われるようになった「利益相反」とは、中立の立場を守らなくてはならない者が、その中立性に違反して振る舞うということだ。簡単に言うと、「利益相反行為」とは「えこひいき」するということだ。つまり、中立的にふるまわなくてはならない立場にいる者が、その中立性を破って、誰かの利益になるようふるまうということだ。
 たとえば、学校での教師の行為を例にあげると、教師はすべての生徒に対して公平中立にふるまわなければならない、という負託を社会から受けている。ところが、いまある生徒Aと生徒Bがけんかをして、教師がそのけんかの理由も聞かず、Aのかたをもち、Bを叱責するとすれば、公平中立にふるまったとはいえない。その教師は「すべての生徒に対して公平中立にふるまってほしい」という社会の負託(これが公正を求める社会にとっての利益である)を無視して、生徒Bの利益になるようにふるまったのだ。このとき、社会の利益と生徒Bの利益は相反(あいはん)したものなる。このような行為を「利益相反(そうはん)行為」と呼ぶ。
 この記事にも書かれているディオバン事件のようなことは、日本の社会全体に広がっている病理である。私が関係するドストエフスキー研究の分野でいえば、江川卓読売文学賞受賞事件、亀山郁夫大佛次郎賞受賞事件、読売文学賞受賞事件がそれに当たる。これについては、ここで少し書いた。読んで頂きたい。
 このような醜悪な事件が起きる原因は、出版不況の影響もあるだろう。つまり、文学としての価値が皆無の出版物に賞を与えて読者をあざむき、部数を伸ばそうという出版社の意図もあるだろう。また、その原因には、自分のやっていることの無意味さに気付かない江川や亀山の愚かしさもあるだろうし、その愚かしさに気付かないまま、自分の友人だからといって賞を与える選考委員たちの愚かしさもあるだろう。しかし、こういう人々の行為によって損なわれるのは、結局はドストエフスキーの作品そのものだ。本来公平にふるまわなければならない日本の出版社やロシア文学研究者が、日本人読者がドストエフスキーの作品から受けるべき利益(文学的価値)を毀損しているのだ。こういう利益相反行為は、公正を求める社会を壊し、社会を腐敗したものに変えてゆく。