正義感、じつは自尊心の病

 以下のHPからの引用にあるように、正義感が原因でいわゆる「引きこもり」になる人は多い。毎日少しずつ不満をためこんでゆき、あるとき、職場や学校に行けなくなる。身体が動かなくなる。職場や学校の環境が良くないことは明らかなのだが、その良くない環境に器用に順応することができない。
 このような不器用さの根底には、ドストエフスキーが生涯その作品のテーマとした、私のいう「自尊心の病」がひそんでいることが多い。要するに、自分は悪くなくて相手が悪い、と思いたがる「自尊心の病」。いつも相手の一枚上を行こうとする病。こういう人は相手に求めすぎる。そして失望する。完全な人間などいないし、完全な状況などないので、そういう人はいつも失望している。朝から晩まで失望している。その失望が巨大な不満のかたまりとなって、その人にのしかかる。そして動けなくなる。
 こういう自尊心の病には早く気付かなければならない。
 しかし、それが引きこもりの人であろうがなかろうが、自尊心の病にかかっている人が自分の自尊心の病に気付くのは絶望的にむつかしい。
 一方、その病に気付いたとたん、その人は世界のどんな場所でも、どんな困難な状況の中でも生き延びてゆくことが可能になる。要するに、迷信だが、ドストエフスキーが好んで言ったように、「猫のような七つの命を持った存在」になる。殺されても殺されも生き返る。これは嘘ではない。もちろん文字通りの意味ではなく、比喩的な意味だ。信じてほしい。これは私自身の経験でもある。だから、引きこもりの人には、ぜひドストエフスキーの作品を読んでほしい。引きこもりでない人にも読んでもらいたいことはもちろんだが。ただ、亀山郁夫のような自尊心の病にかかった死産児の書いたドストエフスキー論だけは読まないでほしい。混乱して何が何だか分からなくなり、ドストエフスキーの作品を読む意味がなくなる。
 と、ここまで書いてきて、この文章は引きこもりの人にイヤミを言っている文章みたいにも読まれる危険性があると思った。私はこの文章を引きこもりの人を攻撃しようと思って書いているのではない。それは、このブログで「引きこもり」で検索して頂いたら分かると思う。私がこの文章を書いたのは、引きこもりの人の参考になるかもしれないと思ったからにすぎない。

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正義感がアダ、こじれる関係(以下、http://tetsuaki.net/nipon-byosou.htmlより引用)

 「足が痛い」―大手企業に勤める40代前半の田中さん(仮称)は、そんな症状を最初に訴え始めた。以来、1年以上にわたって会社を休んでいる。
 その頃から、朝、目が覚めても、体がだるくて、起きられなくなった。もともと、不眠の症状も続いていて、やがて出勤できなくなった。
 きっかけは、些細(ささい)なことだ。上司が、本来仕事に使うべき予算を使い、適当な名目をつけて、不必要な備品などを買いあさっていた。田中さんは持ち前の正義感から、そんな不正がどうしても許せなかったという。
 上司に「こういうものを買うのは禁じられているのではないか」と指摘した。上司は「わかった。部長とも話し合おう」と答え、3人で話し合いの場を持つことになった。しかし、逆に部長から「田中君は被害妄想的なんじゃないか? どうも体の調子も悪そうだね。医務室へ行きなさい」と勧められてしまう。
 医務室では外部の精神科へ行くよう促された。しかし、精神科で医学的に検査しても、どこも異常がない。統合失調症の症状もなく、うつ状態や痛みを防ぐための治療を受けた。
 医師は「足の痛みは、精神的な問題からくるのではないか」と診断。医師の診断書も出たので、会社は休職扱いとなった。
 田中さんは、結婚していて、妻と小さな子供が1人いる。専業主婦の妻は心配するものの、彼は働きに出ようとしない。家では時々、子供と散歩したり、公園でバスケットボールをしたりする以外は、基本的に引きこもりがちになった。昼は近所の目への後ろめたさで、つい外出をためらうからだ。しかし、夜になると、安心感から活動を始め、夜中はずっと起きるようになった。不登校児と同じ心理だ。
 「あの2人の上司をいまも恨んでいる。きちんと対応していてくれれば、こんな状態にはならなかった」と、田中さんは憤る。正義感が仇になるところも、引きこもりの典型的なケースの1つだ。
 「共通するのは、上司との関係がこじれたときに、うまく修復できないタイプの人たち。折り合いが付けられず、なかなか復職もできなくなるんです」