名前について

 亀山は序文でも「アレクセイ・カラマーゾフ」と訳していたが、本文でもそう訳している。

 アレクセイ・カラマーゾフは、この郡の地主フョードル・カラマーゾフの三男として生まれた。父親のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な謎の死をとげ、当時はかなり名の知られた人物だった(いや、今でも人々の噂にのぼることがある)。

 ここで「アレクセイ・カラマーゾフ」、「フョードル・カラマーゾフ」と亀山が訳している箇所、原文ではそれぞれ「アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ」、「フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ」だ。読みやすくするためにこうしたのだろうが、これは誤訳だ。その理由を説明しよう。つまらない問題みたいに思う人がいるだろう。しかし、これはロシア語に限らず、翻訳の根幹に関わる重要な問題なのである。
 ロシア語を少しかじったことのある人なら知っているように、ロシア語の名前は「名+父称+姓」の三つの部分から成立する。父称は父親の名前から作る。英語の「ミスター」や「ミス」、日本語の「様」「先生」などに当たる尊称は、ロシア語では「名+父称」を使う。あまり馴れ馴れしくできない相手に対して「名+父称」を使う。一方、親しい関係になると、名前や愛称、さらに卑称などを使う。たとえば、アレクセイの愛称には「アリョーシャ」などがあり、卑称には「リョーニカ」などがある。
 以上は「等質的」な説明である。
 「え?等質的?」と言われる方がおられるかもしれない。私はすでに論文で詳しく説明しているので、「等質的」「質的」という言葉の意味を説明せずに使ってきた。「等質的」「質的」という言葉の意味について知りたい方は、拙稿「ドストエフスキーと「最初の暴力」──外国語の他者性と催眠術としての物語」「ドストエフスキーと「最初の暴力」(承前)──共通感覚について」という順に読んで頂きたい。また、この二論文を読んで、「等質的」「質的」という概念についてもっと徹底的に知りたいと思われた方は、「物語はなぜ暴力になるのか」「非暴力を実現するために」という順に読んで頂きたい。
 しかし、多くの方は私の論文など読むのは面倒くさいと言われるだろう。そういう人のために、ここで「等質的」「質的」という言葉の意味について簡単に説明しておこう。興味を持たれたら、上記の論文を読んで頂きたい。
 東大助教授の職を放棄し、パリの浮浪者のようになった森有正は日記に次のように書く。

 ポール・ヴァレリイの日本訳が送られてきた。私は日本におけるフランス語教師の職を放棄したが、そうしてよかったと思っている。私の心から尊敬する方がたずさわっている仕事に関連してこういうことを言うのは、実に苦痛であるが、私のいうことは私だけに関しているので、他の人のことを言っているのではない。私はそうすることによってフランス文学の冒涜者であることを免れたのである。こう書いても誤解は避けられないだろう。私に関するこの情況の重大さはまだ十分に理解されていない。時間は浪費されている。フランス語とはフランスという社会に生きる人々の生活の神経系統に他ならない。それは「生きている」(この「」内は、原文では傍点付き)何かなのだ。それだから私は、私にとって、フランス文学を研究する為に私が創造し得る唯一の道を選んだということができる。私は正しい道にある。このことは私にとって大切である。(1967/4/19)

 さらに、同じ翻訳について彼はこう述べる。

 ポール・ヴァレリイの日本訳。その中の二、三の翻訳(その中には私の三十年前の翻訳も入っている!)を読んでみてまったく驚いた。それは確かに最も良い翻訳の部類に入るのであろう。しかしそれは日本語ではないし、日本語に装われたフランス語でさえもない。つまり何でもない。無である。この無のために多くの時間と労力と金。日本の大学でのフランス語の教師を罷めて、本当によかったと思う。一滴の後悔の念だにありはしない。そういうことに比較すれば、私はどんな労働にも耐えることが出来るだろう。日本人が編集した仏和辞典。それは実に多くのアプシュルド(何とも説明のしようもない)な間違いにみちている。(中略)近代日本の西欧的教養なぞといっても、正直のところきりのない冒涜の連続であるとさえ言える。主な理由は、およそ教養なるものに対する根本的な無智にある。ただ単に様式の差異ばかりではない。「対象」(この「」内は、原文では傍点付き)が違う。「社会」(この「」内は、原文では傍点付き)を定義する実体がここにはないのと同じく、「教養」(この「」内は、原文では傍点付き)を定義する実体は日本にはない。しかもこの二つのものは同じものである。それは日本にも、在ると言えば在る。しかしそれは「ある」(この「」内は、原文では傍点付き)教養、もしくは「ある」(この「」内は、原文では傍点付き)集団に外形的に類似したものに過ぎない。そこから巨大な混乱が惹き起こされる。西欧主義が問題なのではない。問題は本質的なものにかかわる。(1967/4/23)

 森有正がパリの浮浪者のようになったのは、日本にいてはいつまでたってもフランス語が「質的」に分かるようにならないと分かったからだ。フランス語が質的に分からないとは、フランスの文化が質的に分からないということでもある。
 先に引用した森有正の言葉を正確に理解するためには、彼の「フランス語とはフランスという社会に生きる人々の生活の神経系統」であり「生きている」何かなのだ、という言葉を正確に理解しなければならない。
 森のこの言葉を言い換えると、或るフランス語はフランス語の神経系統の一部として存在し生きているので、その神経から切り離されれば、たちまち死んでしまうということだ。それが、たとえば、日本語に翻訳されたフランス語であり仏和辞典の中の日本語訳なのである。もちろん、フランス語の神経系統の中の「生きた」或るフランス語と、仏和辞典に掲載されたその日本語訳は同じ二つのものだ。しかし、それは「外形的に類似したもの」にすぎない。つまり、「等質的」に類似しているだけだ。たとえば、フランス語にある「社会」というものの実体は日本語にはない。日本語にあるのは丸山真男が言うような閉鎖的な「タコツボ」しかない「世間」だけだ。そのような日本語の世界に「アソシエーション」を単位とする「社会」という訳語を持ち込んだところで、それは空疎きわまりない。そんなことをしても、日本人は「世間」と「社会」を混同するばかりで「巨大な混乱が惹き起こされる」だけだ。これが森の言いたいことだ。
 ここで森がいう言語の神経系統とは、アリストテレス以来使われてきた概念、「共通感覚(common sense)」のことだ。要するに、日本語には日本語を母語とする者同士が共有する感覚、つまり共通感覚があり、それはフランス語を母語とする者同士が共有する共通感覚とは異なるということだ。もちろん、共通感覚の壁を突破する言葉も存在する。その代表的なものが数字だ。数字や数字からなる数学の世界は言語によって作られた共通感覚の壁を越える。また、その数字を使って成立する科学もまた言語の壁を越える。しかし、大半の生活世界の言葉は言語の壁を越えることができない。なぜなら、私たちの生活世界に生じる現象を表現する言葉の大半は、私たちの共通感覚をたえまなく更新しながら、同時に、その共通感覚を形づくる一要素となっているからだ。それは常に共通感覚の内部にある。
 それでは、言語によって作られた共通感覚の壁を乗り越えるにはどうすればいいのか。それは母国語を使っている母国から逃亡し、その外国と外国語に「身も心も」捧げることだ。言い換えると、森有正須賀敦子のように、「身も心も」フランス人やイタリア人になればいいのだ。しかし、そうなれるものだろうか。森有正が死の前に告白していたように、それは不可能だった。残念ながら、まったく不可能だった(拙稿「ドストエフスキーと「最初の暴力」──外国語の他者性と催眠術としての物語」、p.28)。一方、須賀敦子は、ふつうは不可能なのだが、自分はイタリアにいた一時期、「例外的に」可能だったと言う。だから、日本文学をイタリア語に翻訳できたと言う(須賀敦子、「イタリア語と私」、『須賀敦子全集』第2巻、河出書房新社、2006)。しかし、私は須賀敦子より森有正の言葉を信じる。なぜなら、イタリアから帰ってきてかなり時間がたったあとでも、須賀敦子の日本語は稚拙きわまりないものであったからだ。たとえば、女流文学賞に輝いた『ミラノ 霧の風景』の日本語さえきわめて質の悪いものだ。このような日本語を書く人が、たとえば、川端康成の「山の音」などを正確にイタリア語に訳せるものだろうか。私は不思議に思う。また、そのような言語感覚しかもてない人がイタリア語が分かるようになったと言っても信用できるものだろうか。私は信用できない。彼女の日本語が何とか読むに耐えるものになってくるのは『ユルスナールの靴』以降だ。
 さて、本題に入ると、「アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ」のような人名はロシア語の「神経系統」(共通感覚)を形成していて、それを別の言語に翻訳することはできない。これは、たとえば、「田中」という日本人の姓を、ロシア語で「田んぼの中の一族」と辞書的あるいは「等質的」に訳しても無意味なのと同じだ。「田中」という姓は日本人同士にさえ説明しがたい、しかし、日本語を母語とする者なら共有できるはずの、ある「質的」な意味を持っている。たとえば、「田中」という姓と「中田」という姓の質的な意味がまったく異なるということは、日本語を母語とする者にとっては自明の事柄だろう。
 ところで、「田中」を「田ナカ」と書けば、これはもう日本語の共通感覚から大きく外れているばかりではなく、日本語の姓の等質的な規則からも外れた奇怪な姓に他ならない。この場合、日本語の姓の等質的な規則とは、「姓は漢字から成る」という暗黙の規則だ。この規則から外れた日本人の姓に私はこれまでお目にかかったことがない。だから、「田ナカ」という姓を見ると、ギョッとする。
 亀山の「アレクセイ・カラマーゾフ」という訳も同じだ。もちろん、ロシア語を知らない読者はギョッとしないだろう。だから、かまわないじゃないか、と亀山は言いたいのだろうが、そういうわけにはゆかない。外国語の固有名詞を訳者の都合で勝手に変えたらどうなるだろう。モスクワはモスクワだし、エルミタージュはエルミタージュだろう。人名だって同じだ。仮に『暗夜行路』の時任謙作が英語に翻訳されて「ケンツク・トキニン」となったらどうだろう。まあ、そこまでひどいことをする訳者はいないだろうが、そうなれば、作者の志賀直哉はお墓の中で泣くだろう。やっぱり、段落分けと同じで、原作者の意図は最大限尊重しなければならない。亀山のように、「アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ」から父称を抜いて「アレクセイ・カラマーゾフ」とすれば、ロシア語にはあり得ない奇怪な姓になるだけだ。ロシア人の名前が米国人のように「名+姓」という形になり、アレクセイが「ハロー」と言いそうな感じになる。悪趣味きわまりない。
 また、亀山訳のように、名前から父称を抜いてしまうと、等質的にもフョードルとアレクセイが父子であることを常時意識させられることが不可能になる。いくらロシア語ができない読者でも慣れてくれば、そう意識することが可能になるはずだ。亀山のように訳してしまうと、父子関係が重要なテーマのひとつになっている『カラマーゾフの兄弟』にとって困ったことになる。
 いずれにせよ、固有名詞というものはどう頑張っても言語の壁を越えることができないものなのだから、そのまま訳すしかない。
 ところで、この言語の壁を乗り越えることができない固有名詞を、あたかも乗り越えることができるかのように錯覚しながらドストエフスキー論を展開したのが江川卓だ。すでに批判したことだが(拙稿「ドストエフスキーと「最初の暴力」──外国語の他者性と催眠術としての物語」、「ドストエフスキーと「最初の暴力」(承前)──共通感覚について」)、江川は『罪と罰』の登場人物の名前の謎ときをしながら『罪と罰』論を書いている。これがまったく無意味な試みであることはこれまで述べたことから明らかだろう。たとえば、「田中」という姓を等質的に解釈し、田中君は「田んぼの中の一族」だから、今は町に住んでいるけれど、田舎が恋しいのだ、だから東京に住む町子を捨てて、田舎の花子のもとに走ったのだ、というような説明を誰が信用するだろう。頭が変だと思われるだけだ。このようなことを江川は、読売文学賞をもらった『謎とき「罪と罰」』(新潮選書)で行っているのだ。特に、そこで彼が展開している「ラスコーリニコフ=666説」は狂気の沙汰だ。こんな江川のトンデモ本に感心した読売文学賞の選考委員は、森有正の言うことなどまったく理解できないのだろう。
 さて、以上から、試訳では『カラマーゾフの兄弟』の人名はそのまま訳すことにする。そして必要なら、その名前の使い方を等質的に説明する。ちなみに、私は「作者の言葉」で「アレクセイ・フョードロヴィッチ」を「アレクセイ君」と訳したけれど、これでは試訳の他の名前の訳との一貫性が失われるので修正し、「アレクセイ・フョードロヴィッチ」と訳すことにした。

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 読み直してみて、やはり中途半端な説明になっていると感じた。この項目に関して十分な説明が欲しい方は、まず、拙稿「ドストエフスキーと「最初の暴力」──外国語の他者性と催眠術としての物語」を熟読して頂きたい。(2009/11/29)