島尾敏雄の「青春」

 あと一年少しで定年なので少しずつ研究室にある本の整理をしているのだが、なかなか片付かない。定年後は病院とか図書館が近くにある賃貸の公団住宅に引っ越し、体力と運と命があれば、スーパーの駐車場などで車の交通整理をしながら余生を過ごすつもりだ。だから家に置ける本の数は知れている。どうしても必要な辞書類などを除くと、悲しいほどしか置けない。毎週、研究室で本との別れの儀式をやっている。昔、晶文社から出た島尾敏雄の著作集もそのひとつで、どの巻を捨てるか悩んでいる。で、うじうじとその著作集を出したり入れたりしていると、何と言うことか、その著作集のあいだに、ずっと探していた「つかこうへいインタビュー・現代文学の無視できない10人」(集英社文庫)が隠れていた。つかこうへいというのは「二代目はクリスチャン」のシナリオを書いた人物で早坂暁とともに、私の好きなシナリオ・ライターだ。このインタビュー集は秀逸で、やはりつかこうへいの人柄のためだろう、誰もが生き生きと喋っている。あの恥ずかしがりの井上ひさしも素直に喋っていて素晴らしい。あの怖い中上健次も優しい。その中でも、島尾敏雄ファンの私にとって島尾の話がもっとも貴重で、この本だけは捨てられない。
 で、そこで島尾が、特攻学生だった頃のことを回想して、「それと、あの時はみなさんが青春と重なっていたでしょう。青春というのは奇妙なもので、年がたつと懐かしくなるんですね」という風に、私の大嫌いな「青春」という言葉を使っている。なるほど、私は島尾が「青春」と言っても、まったく違和感を感じない。どうしてかな、と思っているうちに、これも好きだった小坂一也の「青春サイクリング」という歌を思い出した。「青春、青春、ヤッホー、ヤッホー」という歌だ。何だ、私は昔、「青春」という言葉を何とも思っていなかったのだ。いつから嫌いになったのか。たぶん、「青春!青春!」と連呼していた森田健作あたりから嫌いになったのだな。森田や亀山郁夫のいう「青春」は嫌いで、島尾や小坂のいう「青春」は好きだ。

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 井上ひさしと言えば、昔、前妻の西舘好子によってDV(家庭内暴力)を暴露された。その暴力が暴露されるまでは、メディアによって、西舘好子が愛人を作って井上を捨てたと報じられていた。このため、西館とその男性は週刊誌やTVなどのメディアで激しいバッシングを受けていた。今でも覚えているが、ここまで非人間的になれるのかと思えるほど残酷なバッシングだった。しかし、事実は、西館が夫の暴力に耐えかねて同じ劇団のある男性に相談し、それが恋愛に発展していったということらしい。私は昔、西館のその手記、『修羅の棲む家』を読み、西館とその男性に同情すると同時に、西館をたたいたメディアの軽薄さに激しい怒りを覚えた。その頃、不登校児や引きこもり青年の事件が相次ぎ、やはり彼らがメディアのバッシングを受けていたので、私はあるミニコミ誌で西館のその出来事と重ね合わせながらメディアの軽薄さを批判したことがある。
 しかし、その一方で井上に対しては、そういうこともあるだろうな、と思った。というのも、井上のそのDVは明らかに、心理学でいう「創造的退行」であったからだ。しかし、この話は安易に書くと誤解を招きかねないので、改めてちゃんと書くことにする。