致命的なプロットの誤訳

 【亀山訳6】
 第一部 第一編 ある家族の物語
 
 1 フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ

 アレクセイ・カラマーゾフは、この郡の地主フョードル・カラマーゾフの三男として生まれた。父親のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な謎の死をとげ、当時はかなり名の知られた人物だった(いや、今でも人々の噂にのぼることがある)。しかし、そのいきさつについてはいずれきちんとしたところでお話しすることにし、今はとりあえずこの「地主」(彼は生涯、自分の領地にはまったくといってよいほど居つかなかったが、このあたりではそう呼ばれていた)について、こう述べるにとどめよう。
 つまり、一風変わった、ただしあちこちで頻繁に出くわすタイプ、ろくでもない女たらしであるばかりか分別がないタイプ、といって財産上のこまごました問題だけはじつに手際よく処理する能力に長(た)け、それ以外に能がなさそうな男だと──。事実、フョードルは、ほとんど無一文からなりあがった零細の地主で、よその家の食事にありつき、居候(いそうろう)としてうまく転がり込むことばかり考えてきたような男だった。そのくせ、いざ死んでみれば、現金でじつに十万ルーブルの金が手元に残されていたことがわかった。それでも彼は、この郡きっての分別のない非常識人のひとりとして一生をおし通したのである。
 念のためにいっておくが、これは愚かさというのとは少しちがう。それどころかこういう非常識な手合いは、大半がなかなか頭も切れる抜け目のない連中で、ちなみにここでいう分別のなさというのは、なにかしら特別の、ロシア的といってもよい資質なのだ。

 毎度言うことだが、以上が原文でひとつの段落。
 【誤訳】「父親のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な謎の死をとげ、当時はかなり名の知られた人物だった」の「名の知られた」。
 【理由】「名の知られた」という場合の「名」とは、良い意味での「名」であり、名声のこと。たとえば、「名をきずつける」とか「功成り名を遂げる」とか。しかし、この箇所は息子に殺されるというような形で世間に名が知られたということだから、「名の知られた」は間違い。ちなみに、「評判になった」(江川)の「評判」も単独で使う場合はふつう良い意味に使うので、不適切。江川投手、ボール。「悲劇的な奇怪な死によって・・・評判の高かった」(小沼)は完全な間違い。小沼外野手、落球。原選手は「有名になった」。どうかな?食い逃げで出塁か。それとも三振か。むつかしいところ。
 【不適訳】「そのいきさつについてはいずれきちんとしたところでお話しすることにし」の「きちんとしたところで」。
 【理由】ということは、いまは、きちんとせず、無茶苦茶に書いているということか。そんなことはないだろう。原文は「適当なところで」。
 【誤訳】「彼は生涯、自分の領地にはまったくといってよいほど居つかなかったが」の「居つかなかった」。
 【理由】「居つく」というのは「よそから来て、ある家にずっと居る」という意味。野良猫などが家に居つく場合などに使う。野良猫でなくても、他の女のところに居ついた亭主を、カミさんが「うちの亭主は家に居つかなくてねー」と嘆く場合にも使う。つまり、亀山のように訳すと、フョードルが領地に居つくことができない何か特別な理由があることになる。それでは原文をねじ曲げ、読者を余計な妄想に駆り立てることになる。原文ではたんに「居なかった」。
 【誤訳】「つまり、一風変わった、ただしあちこちで頻繁に出くわすタイプ、ろくでもない女たらしであるばかりか分別がないタイプ、といって財産上のこまごました問題だけはじつに手際よく処理する能力に長(た)け、それ以外に能がなさそうな男だと──。」 
 【理由】構造的誤訳。この文はその前の「・・・こう述べるにとどめよう」を受ける文なのだから、原文にはない改行を行ってはいけない。この文と前の文に隙間ができ、じつに気持のわるい文になってしまう。この気持のわるさはドストエフスキーさんの責任ではない。こんな風に改行して平気な亀山の言語感覚そのものが狂っている。
 次の誤訳は「一風変わった、ただしあちこちで頻繁に出くわすタイプ」。原文は"это был странный тип, довольно часто, одноко, встречающийся"。ここで"довольно часто"というのは「かなり頻繁に」ということで、「かなり(довольно)」というのは、ウシャコフ辞典によれば「ある程度まで」という意味。従って、「頻繁に(часто)」という副詞の「頻繁」の程度を「かなり(довольно)」が引き下げている。つまり、「頻繁に」というほどではないが、「けっこう頻繁に」というような意味。亀山のように「あちこちで頻繁に出くわすタイプ」と訳すと、ロシアにはフョードルみたいな助平オヤジがうじゃうじゃいることになり、女性は安心して町も歩けないことになる。作者は同胞のロシア人男性をそんな風に誹謗中傷しているわけではない。
 その次の誤訳は「ろくでもない女たらしであるばかりか分別がないタイプ」。ここは原文で"тип человека не только дрянного и развратного, но вместе с тем и бестолкового"。"дрянного"は"дрянь(ごみ、くず、役に立たないもの)"から派生した形容詞で「くずみたいな」ということ。 "развратного"は「助平な」「女好きの」ということで、あっち方面のことが好きで好きでたまらないということ。この二つを合わせて「どうしようもない助平オヤジ」ぐらいでいいだろう。フョードルはたんなる「助平オヤジ」であり、亀山が言うような「女たらし」ではない。「女たらし」というのは女性を次から次へともてあそぶことができる、特殊な能力をもつ男性のこと。光源氏とか世之介みたいな色男タイプ。どう考えても、フョードルはそんなタイプではない。彼は助平丸出しの女性に嫌われるタイプだろう。
 また、「ろくでもない女たらし」というのがすでに「分別がない」人物ということだから、このふたつを「ばかりか」でつなぐのは変。意味の重複しない言葉を「ばかりか」でつながなくてはならない。というか、そもそも「分別がない」というのが誤訳。ここでの"бестолкового"は「分別がない」という意味ではなく、「頭がわるい」という意味。また、こう訳して初めて後続の文との因果関係、つまりプロットが明確になる。その明確になったプロットによれば、後続の文は、「頭がわるい」くせに「自分の財産となるとテキパキと処理できる」という意味になる。
 拙稿「ドストエフスキーと「最初の暴力」──外国語の他者性と催眠術としての物語」でも述べたように、小説の翻訳では等質的なプロットを外国語から母国語にできるだけ正確に移すのが訳者の最大の使命になる。これからも次々に明らかになることだが、亀山は翻訳者のこの使命にあまりにも無自覚的すぎる。というか、自分を売り出すことしか考えていないので原作をおろそかにし、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳でもしばしば等質的なプロットを母国語に移しそこねている。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』に見られるおびただしい誤訳もさることながら、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』のもうひとつの、そして最大の欠陥はプロットの誤訳にあると言ってもいいだろう。訳者がプロットを誤訳すると、読者は作品の筋を追ってゆくことができなくなる。拙稿「ドストエフスキーの壺の壺」([file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf])でも述べたように、ドストエフスキーポリフォニー小説のような、プロットに無数の穴があり、それを読者が埋めてゆくところに最大の醍醐味がある小説にとって、亀山訳のようなプロットの誤訳は致命的だ。それはドストエフスキー作品の翻訳として存在する意味がない。
 【誤訳】「ほとんど無一文からなりあがった零細の地主」
 【理由】ほとんど無一文から「なりあがったら」零細の地主にはならない。「豊かな地主」になるはず。まちがい。また「零細の地主」という日本語はまちがいで、正しくは「零細な地主」。
 【誤訳】「これは愚かさというのとは少しちがう」の「少しちがう」。
 【理由】原文では、"Тут не глупость"。つまり「ここにあるのは愚かさではない」。「少しちがう」どころか、まったく「愚かさ」ではないということなので、誤訳。
 【誤訳】「それどころかこういう非常識な手合いは、大半がなかなか頭も切れる抜け目のない連中で、ちなみにここでいう分別のなさというのは、なにかしら特別の、ロシア的といってもよい資質なのだ」の「ちなみに」。
 【理由】原文では、

Повторю ещё: тут не глупость; большинство этих сумасбродов довольно умно и хитро,──а именно бестолковость, да ещё какая-то особенная, национальная.

 亀山はここの"а именно"を「ちなみに」と訳しているのだが、「ちなみに」というのは「ついでに言えば」ということなので間違い。ここの"а именно"は「つまり」という意味。すなわち、先行する"большинство этих сумасбродов довольно умно и хитро"という文の内容を"а именно"以下の文で補足説明しているだけだ。
 ちなみに(笑)、"а именно бестолковость, да ещё какая-то особенная, национальная"は「つまり、その頭のわるさというのは、まあ何か特別の国民的なものなんでしょうね」ということ。
 また、"да ещё"という小詞のコンビネーションは、フョードルみたいな人たちは頭がわるい(бестолковость)ですね。ええ、そうですね(да)。でも、それはフョードルさんみたいな人たちだけの特徴というわけでもなくて、さらに(ещё)何か特別の、国民的なものなんですよね、というようなニュアンス。
 繰り返すと、ここではその前の"этих сумасбродов"(亀山訳「こういう非常識な手合い」、試訳「この種の狂人のような人物」)が持つ"бестолковость"(亀山訳「分別のなさ」、試訳「頭のわるさ」)を補足説明しているだけだ。これも繰り返すと、この"бестолковость"を亀山のように「分別のなさ」と訳すと、このあたりの文章の続き具合が分からなくなる。まあ、何が何だか分からなくなったので亀山は、苦しまぎれに麻薬に手を出すみたいにして、「ちなみに」というような変な訳に手を出したんだろう。
 ところで、この部分、原、江川訳はだいたい正しい訳だが、小沼訳は次のようになっている。「・・・こうした狂気じみた人間の多くは──かなり利口で、狡猾なものである。つまりこれは、とりとめがないので、しかもなにか一風変わった、わが国独特のあのとりとめのなさなのである」(昭和40年、第3版)。誰が読んでもこの二番目の文は意味不明だろう。
 こんなことになったのは小沼が"бестолковость"を「とりとめのなさ」と訳しているからだ。小沼には「ロシア=茫漠としてとりとめがない」と言うような図式が頭の中にあるのだろう。
 しかし、この図式は今の場合まちがいで、ここの"бестолковость"はゴーゴリの『死せる魂』に出てくる地主たちが持っているような、愚かなようでいて自分のこととなるとじつにセコくて狡賢い「頭のわるさ」なのである。『カラマーゾフの兄弟』の「作者」(ドストエフスキー自身ではない)に逆らうようだが、これはべつにロシアに限らない。今も昔も私たちの回りにこういう人物は無数にいる。いや、胸に手を当ててよっく反省してみると、私たち自身がそうなのだ。このため私たちはフョードルをあたかも自分の分身のように感じてうんざりしてしまうのである。小沼はこの誤訳を訂正したのだろうか。小沼訳の3版以降(あるのか?)を私は見ていない。

 【試訳6】
 第一部 第一編 ある家族の歴史

 1 フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ

 アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフは、わが郡の地主フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフの三男だった。この父親のフョードルというのが、当時(今もまだ私たちの記憶に生々しいのだが)、その謎に満ちた悲劇的な最後によって人に知られた人物なのである。その今からちょうど十三年前に起きた事件については、話すべき時が来れば話すことにして、今はただ、この「地主」(そう呼ばれてはいたが、生涯を通じてほとんど自分の領地に居たことはなかった)が、変わったタイプの、しかし、けっこうよく見かけるタイプ、つまり、どうしようもない助平オヤジであるというだけではなく、とことん頭のわるい人物だった、ということだけ述べておこう。もっとも、自分の財産のこととなると──どうやら財産のことだけだったようだが──じつに賢く立ち回ることができた。たとえば、フョードル・パーヴロヴィッチはきわめて貧しい地主で、ほとんど無一文からその人生を始めたのだが、人様の食卓を駆けずり回ったり、居候の口を狙ったりしたりしながら人生を終わってみると、十万ルーブリにも及ぶ現金を残していることが分かった。それなのに、彼は生前、わが郡全体において、もっとも頭のわるい半ば狂人のような人物の一人として生涯を送ったのだ。繰り返すが、ここに見られるのは愚かさではない。この種の狂人のような人物の大半は十分賢明で狡猾なのだ。つまり、その頭のわるさは、何か特別な、わが国民に特有の頭のわるさなのだ。

 【亀山訳6】
 第一部 第一編 ある家族の物語
 
 1 フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ

 アレクセイ・カラマーゾフは、この郡の地主フョードル・カラマーゾフの三男として生まれた。父親のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な謎の死をとげ、当時はかなり名の知られた人物だった(いや、今でも人々の噂にのぼることがある)。しかし、そのいきさつについてはいずれきちんとしたところでお話しすることにし、今はとりあえずこの「地主」(彼は生涯、自分の領地にはまったくといってよいほど居つかなかったが、このあたりではそう呼ばれていた)について、こう述べるにとどめよう。
 つまり、一風変わった、ただしあちこちで頻繁に出くわすタイプ、ろくでもない女たらしであるばかりか分別がないタイプ、といって財産上のこまごました問題だけはじつに手際よく処理する能力に長(た)け、それ以外に能がなさそうな男だと──。事実、フョードルは、ほとんど無一文からなりあがった零細の地主で、よその家の食事にありつき、居候(いそうろう)としてうまく転がり込むことばかり考えてきたような男だった。そのくせ、いざ死んでみれば、現金でじつに十万ルーブルの金が手元に残されていたことがわかった。それでも彼は、この郡きっての分別のない非常識人のひとりとして一生をおし通したのである。
 念のためにいっておくが、これは愚かさというのとは少しちがう。それどころかこういう非常識な手合いは、大半がなかなか頭も切れる抜け目のない連中で、ちなみにここでいう分別のなさというのは、なにかしら特別の、ロシア的といってもよい資質なのだ。