村上春樹の気配

 私が村上春樹の小説を愛読するようになったのは、彼の小説に立ちこめている気配が気に入ったからだ。たとえば、「ノルウェイの森」のキズキという少年のまわりには、そのような気配が立ちこめている。キズキのまわりには、昔、いっしょに遊んでいた神戸の六甲学院出身の友人が持っていたような気配が立ちこめている。しかし、その気配は、「ノルウェイの森」を最後に、それ以降、希薄になってゆく。村上春樹に何があったのだろう。また、それに反比例するかのように、村上春樹は卓越したストーリー・テラーとしての腕前を発揮しはじめる。それはそれで大したものなのだが、私には村上作品から失われた気配の方が貴重に思えてならない。
 その気配とはどういうものなんだ、と訊かれても、それは答えられない。それは私と村上春樹のあいだにしか成り立たない、たぶん普遍性をもたないある気配にすぎないからだ。しかし、村上春樹の愛読者であれば、「ノルウェイの森」まであって、それ以降なくなったもの、と言えば、だいたい分かるだろう。
 要するに、私は村上春樹の小説が好きなだけで、彼が亀山郁夫の翻訳についてとんちんかんなことを言ったからといって残念がる必要はないのだ。それはたしかにそうなのだが、やはり残念だな。