良心的兵役拒否

良心的兵役拒否というのが私は嫌いです。良心的でなければ、兵役を拒否してはいけないのかと思う。それはまさに辺見さんがおっしゃるように、兵役という制度自体を認める行為でしょう。非良心的兵役拒否でいいじゃないですか。そう書いたら、鶴見俊輔が賛意を示してくれたことがありました。兵役拒否は反国家という意志的なものから単なる臆病にいたるまで、あらゆる非良心的な意図でなされるべきだと思います。(佐高信)(『絶望という抵抗』、辺見庸佐高信、株式会社金曜日、2014、p.174)

 そう佐高はいうが、佐高とその同調者である鶴見俊輔、さらに佐高の対談者である辺見庸はなにを言っているのかと思う。
 兵役を押しつけられるような状況になったとき、もうすべては終わっているのだ。その段階ですでに、兵役を拒否するとか拒否しないとかいう問題ではなくなっている。
 問題は、それ以前のことだ。「非暴力を実現するために」という論文で述べたように、私たちがイデオロギーや思想に囚われるということじたいが問題なのだ。
 あるイデオロギーや思想に囚われたとき、それが右であれ左であれ、中道であれ、私たちはすでに、そのイデオロギーや思想を守るために闘う用意をしているのである。
 戦争に至る道を防ぐのは、家族や中間集団、したがって、国家を、イデオロギーや思想で修飾しないということだ。
 たとえば、家族や中間集団を安倍政権のように美しいイデオロギーで修飾するとき、それは一挙に危険なものになる。これは鶴見や辺見のように、反体制イデオロギーを美しい言葉で修飾するときも同じだ。
 要するに、私たち(つまり、安倍や佐高や辺見など)は根本的に非暴力的であることを求められているのである。その求めに応じないで、佐高や鶴見、辺見のように、非良心的兵役拒否を主張するのは、火事がすでに家全体に回っているのに、ちゃちな消火器をもって走り回っているようなものなのである。安倍政権を批判しながら、自分たちの軽薄さも批判すべきなのだ。