呆然

 神戸には、昔、亡命ロシア人が多かった。私の恩師の奥さんも亡命ロシア人で、かつては「ミス・ハルビン」と言われるほど美しい人だった(らしい)。私はその恩師の葬式のとき、神戸のハリストス教会で奥さんに会っただけだ。そのときも彼女は十分美しかった。ロシア人女性によくあるように肥るということもなく、ほっそりとしていた。
 奥さんは葬式のとき、恩師の遺体の前で、一時間近く夫を誉めたたえた。あなたのおかげで私はこうして生きていることができる、ほんとにありがとう、あなた。あなたは立派な人でした、ありがとう・・・というような、演説で、ロシア人たちは涙ぐんでいた。もっとも、ロシア語が分からない大半の日本人列席者は、その演説のあまりの長さに呆然としていた。
 この私の恩師はハルビン学院でロシア語を教えていた人で(当時、日本の今でいうNHKのラジオ放送でもロシア語講座をもっていたらしい)、あるとき、理由は不明ながら、特高に逮捕され、厳しい拷問を受けた。しかし、結局、ソ連のスパイではないことが明らかになったので、無罪放免となった。この拷問のすえ瀕死の状態で下宿に帰ってきた恩師を寝ずに看病したのが、そのミス・ハルビン、すなわち、恩師が下宿していた白系ロシア人の家のお嬢さんであった。そして、恩師は一命をとりとめたのである。
 時は移り、満州ソ連赤軍が入ってきたので、そのミス・ハルビンハルビンを離れ、戦後、私の恩師を頼って日本にやってきた。どこにも行くあてがなかったからだろう。詳しいいきさつは分からないが、結局、恩師は、かつての恩義に報いるため、そのミス・ハルビンと結婚した。
 というようなことを、私は大阪は十三の飲み屋で、ハルビン学院の学生であった工藤精一郎氏から繰り返し繰り返し聞かされた。工藤氏は涙ぐんでいるようにも見えた。ちなみに、それ以外の工藤氏自身のハルビン時代の懺悔話も繰り返し繰り返し聞かされたが、もう忘れた。
 その恩師の奥さんがある日、何があったのか、神戸は北野町の家から出ていってしまった。律儀な恩師は大学には来たものの、いつもどおり授業の十分前にはかならず教壇には立つものの、立つだけで、呆然と窓の外をながめるだけだった。何も言わず、何もしない。そして授業がおわる。それが一ヶ月続いた。学生はわけが分からず、呆然とするだけだった。一ヶ月後、奥さんが帰ってきた。恩師はまたロシア語の授業を始めた。学生はわけが分からず、呆然と授業を受けた。事実が分かったのは、その一年後だった。というような話を先輩から聞いたのだが、どこまで正確な話なのか、責任は持てない。