上がらない方法

 私たちは人間の活動を通して、その人間を見ている。そこに優劣はない。時間の流れの中で生きている人間に優劣をつけることなどできない。これはベルクソンが『時間と自由』の中で述べていることだ。
 しかし、私たちは人間の活動から時間を奪いとり、その活動を生命のない記号(優、良、可、不可、あるいは、5点、4点、3点、2点、1点、0点、という風に)に変えるとき、初めてその活動に優劣をつけることができる。
 たとえば、ある活動(スポーツや演奏)を行っている者自身が、その活動の最中、自らを観察し、優劣を付けようとしたとたん、時間の流れは止まる。また、その活動の鑑賞者はその止まった時間を敏感に感じ取るだろう。このとき、その人前で活動(パーフォマンス)を行っている者に「上がり」が生まれている。その「上がり」を増幅させるのが鑑賞者たちだ。彼らは人前で活動を行う者に、ほんの少しでも自己観察がまじると、活動における時間の流れが止まったのを感じ取る。そしてその活動に優劣をつける(「なんて下手くそ!」、「あ、惜しい!」、「そこ、なんとかならないか!」という風に)。この鑑賞者の不安が人前で活動する者に伝わる。このため、その不安と上がりは人前で活動する者にとって、手に負えないものになる。
 だから、上がりのない活動を目指す者、たとえば、上がりのない演奏を目指す者、上がりのない競技などを目指す者は、その活動の最中、決して自分の活動に優劣をつけてはならない。しかし、普段から他人の活動を優劣をつけながら鑑賞している者は、自分の活動についても優劣をつけるだろう。だから、普段から優劣をつけないで、他人の活動そのものを受容すること。そして、可能ならば、楽しむという態度を身につけなければならない。決して評価してはならない。これが結局は自分の活動に優劣を付けることを防ぎ、人前で上がることを防ぐことになる。