美しい透明な存在

 今年の夏は体調不良に悩まされた。何をするにもおっくうで、暑いというので畑仕事もいいかげんにすませ、年とともに下手になるギターにさわる気にもなれず、ますます下手になった。そして身体のあちこちが痛くなり、医者に行って、「お腹などが痛いんですが」と言って、調べてもらったが、結局分からない。こりゃ、鬱病ではあるまいか、と思い、警戒していたが、ドストエフスキー公開講座の受講生たちと講座のあと飲んで騒いで家に帰ると、そのおっくうな感じがうすれていた。「なんだ、おれはさみしかっただけか」と思い、やはり、そうだったのか、と思った。
 自分では孤独に強いと思っていたのだが、やはり、そうではなかったのだ。
 あれはいつだったか、初夏の頃だったか、ギター仲間の建設会社の社長をやっている男から電話がかかってきて、「Sちゃんが死んだんや」と言われた。Sちゃんというのは、勤めていた電力関係の会社を数年前、定年退職した男で、私より5歳ぐらい若かった。高校生の頃、渡辺範彦にその美音を褒められたということをいつも自慢していた。渡辺範彦というのは、パリ国際ギターコンクールで優勝した神戸のギタリストだ。私と同い年だったが、10年ぐらい前に亡くなった。若かった頃、神戸で彼の演奏を聞いたことがある。
 渡辺範彦も言ったように、Sの音は美しかった。私はギターのテクニックにはほとんど興味がない。技巧を見せつけられても、困るだけだ。それより、生命感のある美しい音に興味がある。あまり下手なのは困るが、ギターが下手でも音が美しいと、それだけで流れてゆく時間が貴重なものに思われる。Sもそれなりに上手だったが、そそっかしい性質もあってか、よく弾き間違えた。また、しばしば、弾くべき箇所を忘れてしまい、舞台で立ち往生した。これは私も同じなので、何とも思わなかったが、初めて聞いたとき、その美音に打ちのめされた。
 「どうして、お前みたいな男に、そんな、ええ音が出るんや」
 と、私があるとき言うと、
 「お前みたいな男とはどういう意味や」
 Sはそう言って笑った。そばに美しい女性がいたが、私はかまわず、
 「スケベで、大食いで、ほらふきで・・・」
 そう言うと、またSは笑った。
 Sに死なれてしまった今になって初めて分かるのだが、Sの音はSの存在と同じように美しく透明であったように思う。ほめすぎかな、そう言うと、またSの笑い声が聞こえるような気がする。