引き裂かれたもの

引き裂かれたもの(黒田三郎


その書きかけの手紙のひとことが
僕のこころを無残に引き裂く
一週間たったら誕生日を迎える
たったひとりの幼いむすめに
胸を病む母の書いたひとことが


「ほしいものはきまりましたか
なんでもいってくるといいのよ」と
ひとりの貧しい母は書き
その書きかけの手紙を残して
死んだ


「二千の結核患者、炎熱の都議会に座り込み
一人死亡」と
新聞は告げる
一人死亡!
一人死亡とは


それは
どういうことだったのか
識者は言う「療養中の体で闘争は疑問」と
識者は言う「政治患者を作る政治」と
識者は言う「やはり政治の貧困から」と


そのひとつひとつの言葉に
僕のなかの識者がうなずく
うなずきながら
ただうなずく自分に激しい屈辱を
僕は感じる


一人死亡とは
それは
一人という
数のことなのかと
一人死亡とは


決して失われてはならないものが
そこでみすみす失われてしまったことを
僕は決して許すことができない
死んだひとの永遠に届かない声
永遠に引き裂かれたもの!


無残にかつぎ上げられた担架の上で
何のために
そのひとりの貧しい母は
死んだのか
「なんでも言ってくるといいのよ」と
その言葉がまだ幼いむすめの耳に入らぬ中に

 文学とは何か、と大上段にふりかぶって論じる必要はない。文学は人間が言葉を使いはじめた最初からある。文学は凶器となって私たちを襲う言葉を使って、その暴力から私たちを守る。黒田は、私が「物語はなぜ暴力になるのか」で述べた事態を、この詩で一瞬のうちに語る。