「一度生まれ」の詩人?

 ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相(上)(下)』(枡田啓三郎訳、岩波文庫、1969-1970)というのは、宗教的回心を心理学者の立場から論じた本で、私はこれを学生の頃からくり返し読んできた。で、原書はいつ出版されたのかと思い返してみると、すでに100年ぐらい前に出版されている。この100年というのに驚いてしまう。学生の頃は、つい最近出版されたように思っていたのに、それが100年前!要するに、私が年をとったということにすぎないのだが。
 その本の中に、「一度生まれ」、「二度生まれ」という言葉が出てくる。私はこの言葉を、友人との会話などで使ってきた。しかし、あるときから、「一度生まれ」という言葉を使うのは良くないのではないかと思い始めた。そのことについて少し書いてみよう。
 ジェイムズのいう「一度生まれ」の人とは、生まれつき世界と調和して生きることができる健康な精神の持ち主のことだ。これに対して、「二度生まれ」の人とは、自分の生きている世界を受け入れることができない人が回心し、世界をありのままに受容することができるようになった人のことだ。
 「二度生まれの人」についてはこのままで了解できる。これはドストエフスキーのいう死産児が回心するような場合だ。『罪と罰』のラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老などが二度生まれの人になる。
 これに対して、「一度生まれ」は分かりにくい。一度生まれの人とは、もちろんドストエフスキーのいう死産児のことではない。それは『悪霊』のスタヴローギンや、ユダヤ人を絶滅収容所に送ったアイヒマンのような人物のことではない。
 では、どんな人が一度生まれなのか。その代表的な例として、ジェイムズは詩人のホイットマンを挙げている。ジェイムズはこういう。

 ホイットマンはしばしば「異教徒」と呼ばれている。この言葉は、今日では、罪の意識のない、たんに自然的な動物的人間を意味する場合もあれば、また独自な宗教的意識をもったギリシア人やローマ人を意味する場合もある。これらのいずれの意味においても、異教徒という言葉はこの詩人にぴったりあてはまらない。彼は善悪の樹を味わったことのないいわゆる単なる動物的人間より以上のものである。罪に対する彼の無関心さのうちには、心傲(おご)れる者たるの罪があることを彼は知っており、卑屈さや偏狭さから自由な彼の態度のうちには意識的な誇りがあって、これは異教徒という言葉の第一の意味における純粋な異教徒にはけっして見られないことだからである。
「私は動物たちの仲間になっていっしょに暮らすことができたらと思う。動物たちはあんなに静かで満ちたりているのだ。
 私はたたずんで、長い長い間、彼らを見まもる。
 彼らは自己の境遇に呻いたりこぼしたりはしない。
 彼らは、闇のなかで目ざめたまま横になっていたり、自己の罪に泣いたりはしない。
 所有欲をもつものもなく、所有欲につかれて狂いまわるものもいない。
 他の者の前に跪(ひざまず)くものも、数千年前に生きた同類に向かって跪くものもいない。
 全地上のどこにも、身分のよいものも、不幸なものもいはしない。」

 要するに、ホイットマンのようなタイプの一度生まれの人とは、動物以上の存在であると同時に、動物のように自然と調和して生きることができる人のことだ。
 ジェイムズがここで挙げている詩はホイットマンの代表作「ぼく自身の歌」の第32節だ。私は学生のころ、ヘンリー・ミラー経由でホイットマンを知り、その詩集「LEAVES OF GRASS(草の葉)」を読んだ。当時はヒッピーやビートルズが流行していた。そういう空気にホイットマンはぴったりだった。オノ・ヨーコがYes,Yes,Yes,と世界を丸ごと受け入れようという肯定の精神を鼓舞したが、そういう精神にぴったりの詩人だった。私がジェイムズの『宗教的経験の諸相』の訳書を読んだのもその頃だ。このため、若くて愚かだった私は、ジェイムズのいう「一度生まれ」という言葉をそのまま受け入れた。
 しかし、それから十年ぐらいして、その言葉を使って論文を書こうと思い、改めて「草の葉」を読み返した。読み返してすぐ、ホイットマンは一度生まれでも何でもないのではないのか、ひょっとすると、ドストエフスキーのいう死産児ではないのか、という疑いを私はもったのである。そこで、もう一度『宗教的経験の諸相』を読み返すと、ジェイムズは、なんと、次のように言っているではないか。

 彼(ホイットマン:萩原)の楽観主義はあまりにも気ままであり、反抗的である。彼の福音には、むやみに強がっているようなところがあり、どこか気どったゆがみがあって(以下略)(『宗教的経験の諸相(上)』、p.135)

 要するに、ホイットマンの楽観主義はわざとらしい、ホイットマンは演技をしているのではないのか、とジェイムズは疑っているのである。若い私はホイットマンにのぼせて、ジェイムズのこの言葉に気がつかなかったのだ。いずれにせよ、ジェイムズはホイットマンを疑っているのではないのか、と、私は思った。
 ということで、ホイットマンが演技をしているのかどうかはさておき、私は論文でホイットマンを一度生まれの例として取り上げるのはやめることにした。その代わりに、ドストエフスキーの小説に出てくる白痴の人々、たとえば、『カラマーゾフの兄弟』のリーザなどを一度生まれの例として挙げることにした。この例でよかったのかどうか。今も私は自信がもてないでいる。そして、今は、ジェイムズのいう「一度生まれ」という概念じたいが間違っていたのかもしれないと思っている。なぜなら精神が正常であるかぎり、世界をそのまま受け入れることができる人がいるとは思えないからだ。なぜなら人間は言葉を使って考え、反省する動物であるからだ。ジェイムズの挙げているホイットマン以外の一度生まれの人物にしても、生まれたときから周囲の宗教的雰囲気に洗脳されているだけのように思われる。やはり人間はその自尊心が砕かれなければ回心には至らないし、回心がなければ、世界をありのままに受け入れることもできないと思う。言うまでもないことだが、世界をありのままに受け入れるとは、悪をありのままに受け入れるということではない。つまり、すべてが許されているわけではない。