古館伊知郎とプロレス的構造

 子供の頃はプロレスが好きで、とくに、力道山や東富士が好きだった。家にテレビがないので、近所の金持の家に上がりこんで見せてもらった。その状態がずっと続き、家にテレビが来てからもプロレスは見続けた。しかし、あるとき、誰かから「プロレスというのは八百長だ」と言われて、なるほど、と思い、見る気を失った。そして私の興味はプロレスからボクシングに移っていったのだが、それはともかく、先日、テレビ朝日の「報道ステーション」というニュース番組を見ていて、久しぶりにプロレスの場外乱闘を思い出した。
 というのも、その番組のキャスターをしていたのが、古館伊知郎という、以前、プロレス中継を行っていたアナウンサーだったからだ。古館伊知郎によるプロレスの実況中継は一、二回見たことがあるが、わざとらしい言葉遣いにうんざりし、それ以来、プロレスの実況中継だけではなく、古館伊知郎の出るものは避けるようになった。
 ちなみに、私の良し悪しを判断する基準は単純で、「わざとらしいか、わざとらしくないか」ということに尽きる。これは小説でも詩でも映画でもアナウンサーでも同じだ。だから、たとえば、NHKの「おはよう日本」に出ている阿部渉アナウンサーは良くて、「報道ステーション」に出ている古館伊知郎は良くないのである。
 もっとも、「報道ステーション」の前身である「ニュースステーション」はよく見ていた。これも理由はキャスターの久米宏がわざとらしくなかったからだ。また、「ニュースステーション」という番組自体も、よく出来ていたと思う。
 しかし、「報道ステーション」になってからは、あまり見なくなった。他に見るべき番組がないときは、しかたなく見るけれど、見ても、古館伊知郎のプロレス風の解説が始まると音を消す。そしてゲストの話だけを聞く。
 こんな風にして「報道ステーション」を見ているうちに、これはどうもプロレスと同じ番組ではないかと思うようになった。つまり、あらかじめ善玉と悪玉が決まっていて、たとえば、安倍晋三は悪玉で、それを批判する自分たちは力道山、いや、善玉だという風なプロレスだ。しかし、これはプロレスなので、本気で相手を倒してはいけない。力道山のように、空手チョップで倒すふりをするだけだ。本気で悪玉をやっつけ、再起不能にしてはいけない。
 従って、このような「報道ステーション」のプロレス的構造を理解しない(あるいは、理解していないふりをする)善玉が現れたら、即、退場ということになる。このため、本気で安倍政権を批判した元経済産業省官僚の古賀茂明が、安倍政権とプロレスを演じていた古館伊知郎と場外乱闘になり、番組から追放された。
 しかし、こういうプロレス的構造は日本の集団には付きものだ。たとえば、先の戦争を無意味に引き延ばした陸軍と海軍の意地の張り合い、さらに戦後の自民党社会党の意地の張り合いがそうだったし、大学と全共闘の関係もそうだった。国会などはまさにプロレスそのものだ。土居健郎はこのような日本のプロレス的構造を「甘え」の構造と呼んだが、こういう構造はいつまで続くのだろうか。
 古賀茂明のような、日本のプロレス的構造を理解できないようなふりをする人物が次々に現れて、その構造を壊してほしい。そうすれば、日本がもう愚かな戦争を始めることはないだろう。