小川国夫

 先の記事を書いたあと、どうしてわたしがシュペルヴィエルという詩人などを知っていたのだろう、わたしの趣味ではないはずだ。多田智満子の影響なのか・・・と、不審に思っていたが、あるとき、これは小川国夫の真似だということを思いだした。
 心臓の悪かった小川は『海からの光』という短編集のあとがきで、シュペルヴィエルの「心臓」という詩を引用していた。それで小川と同様、当時、心臓がときどきコトンと止まっていたわたしが小川を真似て、シュペルヴィエルのその詩を記憶したというわけだ。記憶したのはいいが、自分の趣味ではないので、忘れていたということだ。人真似というのは身につかない。しかし、崇拝していると、知らないうちに、その人の真似をしている。そして、あとで、自分の柄でもないのに、と、赤面することになる。
 小川の書いたものはその処女作である『アポロンの島』から愛読してきたが、彼の(キリスト教の)神の造った世界の中でうごめく人間を描いた作品は、神とは無縁のまま生きている人々にとっては無意味そのものだろう。小川は今も、神とは無縁のまま生きている日本人の多くにとって、無意味で退屈な存在であるにちがいない。
 小川の書いたものはすべて愛読しているが、たぶんいちばん好きなのは「欠落の秋」という短篇だ。これは『逸民』という短編集に入っている。これは柏原という大学助手の悲しい恋物語について語ったものだが、その語り方に小川の性格がはっきり出ている。これが小川なのだ。こういう作家を同時代に持つことができたということに感謝するしかない。
 小川にしては珍しいことだが、その短篇で人を批判している。引用してみよう。

 ところが、半月ほどして東京へ出、私には瀕死とも思えたこの恋のことを、同じく《青銅時代》同人の荒木に話すと、一笑に付した。私が荒木に話したのは、荒木は柏原の数年先輩に当り、同じ研究室にいたことがあったし、また、荒木の紹介で柏原は私たちの雑誌に入会したという事情があったからだ。二人は親しかったから、柏原は失恋の慰藉をむしろ荒木に求めるのが自然だったのに、それをしていないのは、あるいは荒木が後輩に対して辛辣だったからかもしれないと、私は荒木の哄笑をあきれて眺めながら、思ったものだ。
――バーのマダムとできていて、しかも、結婚前夜の娘を犯す。不良のやり口だなあ、と荒木は言った。
――犯す・・・。
――犯すというのとは違っているかもしれないがね。僕は世間一般の方程式で言っているんだ。
――犯す・・・。それでもいいよ。問題はその後だ。その後恋に陥ちたことは事実だ。
――恋に陥ちたりするのが、柏原の駄目なところだ。
――仕方がないだろう。
 話すにつれて、私は掴みかかる調子になったが、荒木は酒席を楽しんでいた。悠然と酒を私に注ぎ、うまそうに杯を傾けたり、料理をつまんだりしていた。
――陥とし穴に嵌まったから、柏原の生地が出たんだね。造形性がないんだよ、と荒木は言った。
――造形性・・・
――独創と言ってもいいがね。柏原某じゃなくてはならんものがない。実に、どこにでもありそうな話じゃあないか。
――どこにでもあるって話でもないと思うがな。
――いや、どこにもある。不貞を気取った男が泡を喰うメロドラマがあるだろう。天真爛漫にもその形に嵌ってしまっている。そういう自分を恥ずかしいとも思っていない。
――天真爛漫で結構じゃあないか。君は気むずかしいな。
 私がそう言うと、荒木は愉快そうに哄笑した。その顔の方が、柏原の顔よりよほど天真爛漫に見えた。

 こういう箇所を読んでいると、わたしはどれだけ多くのこういう高慢な人々に大学で出会ってきたのかと思う。大学や研究所で本を読んで理屈ばかりひねくりかえしていると、こういう高慢な人間が出来上がるのだ。彼らにとって小川国夫は無意味な存在だろう。